龍のひげ’s blog

子供たちの未来のために日本を変革する

離婚と社会思想

もうすぐ学校では夏休みが始まるが、小学校5年生の我が息子はもうすでに1学期の成績を知らされている。5(5段階評価)が4つ以上あったらPSPを買ってやると約束していたので、気になって電話で聞いてみた。
「5、何個やった。」と聞くと
「2個。あとは全部4。」と言う。
「・・・・・。5は何と何?」
「算数と体育。社会はテストの点数が1点だけ(5に)足りへんかってん。」
「そうか、・・・・・。残念やけどPSPは、あかんかったな。」
「うん。別にいらんで。」
と、こんな感じだ。小学校の成績ぐらい、ほとんど5でないといけないと思うのだが、息子は私に似たのか似ていないのか、奥床しいというか1回の成績であまりたくさんの5を取ることは品のないことだと考えているようだ。確か、小学校4年生の3学期も5は2個だけで、その時の5は国語と音楽であった。息子の慎ましい5の配置には、微妙に妙なるバランス感覚が発揮されているかのようで、勉強系とそれ以外の音楽、運動系から毎回、1個ずつである。
早いもので私が離婚してからもう2年が過ぎた。私が親権を取り、監護権者の元妻と息子が私が所有するマンションに離婚後も住み続けるという変則的なスタイルではあるが結果的には正解であった。先ず何よりも私の立場で言えば、金銭的な負担は一般的な離婚に比べれば大きいが、息子が近くに住んでいるのでいつでも会おうと思えば会える。と言っても私がマンションに行くことはない。週末に息子が私が住んでいる実家に泊まりにくるのだ。その上に1年ほど前からは毎月1回、必ず息子と元妻の3人で外食に行くことにしている。元妻の立場で見れば週に何回かのパート収入の他に、私が毎月支給している養育費や教育費と公的な母子家庭の手当てまで貰えているので経済的に安定している。
それならそもそも離婚する必要はなかったのではないかと考える人もいるかも知れないが、それはまた別の話しである。詳しくは述べないが、どうしても離婚しなければならない事情はあったのだ。そもそも欧米ではこのような共同親権の生活スタイルは当たり前のように確立されているのである。私は離婚後のこのような“人間的な”生活を確保するために高裁まで争って大変な苦労をしなければならなかった。別に私は自らの離婚体験で共同親権の先駆者を気取るつもりは毛頭ないが、日本がその経済規模の大きさからは考えられないくらい個々人の“人間らしい生活感覚”が欠如した生活後進国であることは明らかだと思われる。共同親権については日本では未だ認められていないが、現実的には自然とその方向に向かっていっている。長引く不況の影響で、そうせざるを得ない状況に追い込まれているのだ。元妻から仕入れた話しであるが、パート先の職場同僚にも離婚している女性が多くいるようだ。その内の一人は離婚して子供を引き取っているが、昼間、子供を元夫の母親に預けて働いているらしい。離婚はしていてもその女性は元夫の母親と仲が良いとのことである。ただし、そのような状況下で新しい彼氏と再婚の話しを進めていたが、直前で何らかの理由でぽしゃってしまったとのことである。離婚をして子供を引き取った女性の全てが仕事をする上で、自らの親族に子育ての協力が得られる訳ではない。離婚をしていても夫や夫の親族に子育ての協力が得られるのであれば、子供のためにはそれを拒む理由はないはずなのである。これが本来、共同親権のベースとなる考え方である。日本には制度として共同親権が認められていないが、実際的にそのように離婚後に協力し合うケースが増えてきているのは事実である。バブルの時代にフェミニズムの思想が華やかだったのは単に、シングルマザーが何とか働いて生きてゆけるだけの経済力が国内にあったということと、シングルマザーを支援する公的資金の財源も豊かであったからだ。夢のないことを言って嫌われるかも知れないが、要は全ては金の問題に行き着くのである。だから近年はめっきりフェミニズム運動も下火になり、家族の絆の大切さを訴える道徳が多く見られるように変化してきている。あまり嫌味を言いたくはないが世の中の仕組みは本当に現金に出来ている。フェミニズム思想が社会に横溢していた時代は、若い女性に対して離婚をして一人で生きてゆく生き方がいかに美しく尊いものであるかを散々洗脳するように吹き込んできたではないか。何で今は、“家族の絆”なんだ。景気が良かろうが、悪かろうが、いつの時代も子供を育てる大変さは変わらないし、個々人の自立も家族の絆も共に大切なことは普遍のはずである。日本にはその時代時代で、あまりに現金で下種な洗脳が多すぎる。だから本当の人間らしさが末端の国民生活に根付かないのである。もちろん大衆にも責任はある。お上やマスコミの言う道徳を疑うことなく無条件に信用しすぎるからだ。だが20代や30代の若い世代が、社会の権威的な思想に騙されるのは無理もないとも言えよう。40歳ぐらいになってやっと世の中の嘘が見えてくるのであるが、その時にはもう手遅れなのである。フェミニズムについて見ても若い頃は、“女性のための思想”などというありきたりで安っぽいキャッチフレーズに女性なら誰しも心を魅かれてしまう。ところが、一般の女性が自分の人生を一時的に一部の政治運動に利用されていただけであったことに気付くのは人生経験を積んで年を取り、人生のやり直しが効かなくなってからである。そういう全般的な社会プロセスの中で、一部の生活が荒廃した離婚女性が、我を見失って風俗に走ったり、子供の養育をネグレクトしたり、虐待することにつながっているように私には見える。けれど一方でその時代の人心は社会を良き方向に浄化しようと、天使たちの庇護の下に強力に働いているのである。それが日本にあっては共同親権制度の導入である。個々人男女の自立と尊厳、そして個々人男女の自立と尊厳に基づいた協力関係の下で、何よりも子供の幸福を社会の利益と活性化に結びつけてゆくこと、それこそが共同親権の趣旨であるべきだ。憎悪の下で、男女間を仲違えさせるだけの分離政策を運動の支柱とするこれまでのフェミニズムの卑しき思想は、男女の自立と敬愛と協力という新しい領域に向かって静かに歩みつつある。