龍のひげ’s blog

子供たちの未来のために日本を変革する

女と日本

子供に関することの悩みは、いつになっても尽きない。離婚が正式に成立して、もう4年以上になる。苦心惨憺して高裁まで離婚と親権を争い、最終的には和解により、離婚が認められ、私が親権者となったものである。但し元妻は監護権者として私が所有するマンションに、息子と一緒に息子が成人に達する年度の3月末日迄、そのまま継続して住み続けることとなった。それは私の考えとしても小さな子供の世話や面倒は父親よりも母親の方が適していることは明らかであるし、息子を母親と引き離すことは忍びないと思われたからである。父親である私はマンションの近く(二駅ほどの距離)の実家に住み、親権者として経済的な負担をしつつ、いつでも会いたい時や、必要な時に息子と会えるだけで充分であった。まあ云わば、日本にはあまり馴染みのない共同親権みたいなものである。もちろんケースにはよるが、少なくとも私の場合にはそのスタイルが元妻と息子にとって最も安定した離婚後の生活であると私は信じて疑わなかったし、実際にその通りになっている。先ず何よりも経済的に安定している。具体的な数字を記すのもどうかとは思うが、話しの内容上、正確に述べさせていただくが、毎月、私が支払っている養育費は8万5千円である。それにプラスして、元妻が離婚後に始めたパートの収入が月に10万円位はあるようである。それに正確には知らないが、4か月ごとに支給される母子家庭手当の月々5千円を加えると19万円になる。元妻がその19万円の金で賄うべき主な支出は母子二人分の食費と光熱費だけである。それ以外のマンションの家賃は0だし、息子の塾代他、教育に関わる費用の一切は全て私が負担することになっているからだ。3LDKの80㎡ほどのマンション(それも都心の一等地)で、母子二人だけで広々と生活していて、食費と光熱費だけで(もちろん細かなことを言えば洋服代や日用雑貨や美容院代なども要るが、息子の靴などは年ごとに大きくなっていくので頻繁に私が買う羽目になっている)19万円である。私の生活などよりもよほど余裕がある。それだけではない。日本の母子家庭は母子ともに医療費が今ではさすがに無料ではないにせよ、1回に支払う保険適用の限度額が確か500円である。母親の地下鉄料金は何と子供料金である。息子は今年の春から中学生になって大人料金になったが、母親の方は精神的な中身の内実と共に子供料金である。改札機を通過するときに、ライトが点灯して、子供並みに「ピヨピヨ」と音が鳴ればいいのにと思う。私はそういうことが事前に見えていたからこそ、親切心から、そのような離婚後の共同親権的なライフスタイルを強く要望してきたものである。ところが裁判で争うまでに泥沼に悪化していた関係から、元妻は私の言う事をまったく信用しようとはしなかった。離婚後4年以上も経過しても変わらず、元妻が安定した生活が送れているのは自分で言うのも何だが、“私のおかげ”なのだから少しぐらいは感謝してもらえてもよさそうなものである。ところがそういう気配はまったく伺えないものである。私は何も一般的に母子家庭の生活が安定しているなどと言っているわけではなく、また社会制度を悪用している訳ではない。聞くところによると最近では実際には別居していないにもかかわらず離婚したことにして同居を続けながら、社会保障を不正受給しているような人間も増えてきているようだ。私は自分の持家で毎年の固定資産税や管理費などの支払っているが、そのマンションにはほとんど寄りつくこともない。また特に行きたいとも思わない。年に一度はクリスマスをそのマンションで3人で祝う慣例となっているが、それ以外は元妻側の都合で(物を運び出したり、何かを修理しなければならない時など)呼び出されたりすることはあるが、そういうときでもお茶の一つも出してはくれない。本当に腹立たしい限りである。私は高裁で取り纏められた和解内容を忠実に守っているだけである。世間の一般的な母子家庭の生活レベルについては、当然、母親の収入にもよるが総体的に見れば余裕のある家庭は少なく、生活そのものが崩壊しているような悲惨な家庭も相当数、存在するのであろう。母親が子供を殺したり、心中するような記事を見るのは本当に心苦しいものである。ただそれも私に言わせれば、政治が悪いのである。女性の時代だ、女性の活用だなどと言いながら、ごく一部の経済力が高く、特殊な資格を有している女性だけを対象にして論じ、私の元妻のようにパートの仕事すら見つけるのが難しいような母親こそ共同親権制度による元夫からの援助が必要であるにも関わらず、既存の統治システムが変質する可能性が高いゆえに決して法制化しようとしないからである。そういう社会批判の意味合いも含めて、私は自分の離婚を正当化するつもりはないが、とにかくそのようなライフスタイルを何とか維持させているものである。しかしそれでは、誰でも離婚をすれば私のように共同親権を模倣した生活をすればよいと推奨できるかと言えば、決してそういうことでもない。正式に共同親権が認められていない日本では父親と母親の双方がそのような離婚後のライフスタイルに対する社会意義の基本的な理解がなければ、経済的な安定は得られても、感情的なもつれは解消されずにおかしな具合になってしまうのである。具体的には母親の自立意識が不完全なために精神的に未熟なままであり、肝心の子供の養育に関しても、非常にコミュニケーションが取り難いようなことになる。私のケースで言えば、元妻の個人的な性格による所も大きいのであろうが、とにかく息子の能力とか将来の可能性を頭ごなしに否定して、息子の悪口を私に言い続けるのである。その傾向は離婚が成立する前の、息子が幼稚園生の別居当時から一貫していたものである。不満を解消するように延々とそういう話を私に聞かせ続けるのである。これは正直に言って聞かされる方の私にとっては、たまったものではない。元妻が息子を嫌っているのではなく、私に対する当てつけというか、ある種のいやがらせなのだ。それも無意識化しているから、非常に巧妙に息子への心配を装った言い回しで、くどくどネチネチとアホだとか言い続け、私がそれに対して冷静に否定し、息子の将来が切り開かれてゆく見通しを述べようものなら、かみつくような口調でヒステリック的に絶対に無理だ、などと過剰な反応が返ってくることとなるのである。信じられないかもしれないが、一度や二度だけではなく、これがこの10年間ぐらい何百回となく繰り返されてきた、いつものパターンなのだ。私が離婚したくなる気持ちも少しは、ご理解いただけることであろう。私に言うだけで、元妻は息子と二人の時にはそういうことは言っていないのかも知れないが(その辺はよくわからない)、しかし元妻が私に言っている時には、息子は電話の近くで会話内容を聞いていることが多いから、間接的に言っているのと同じである。元妻は息子に対して一方ではアホだ何だと貶しながら、もう一方では妙に教育熱心なのである。その辺も非常に理解しがたいことだが、とにかく元妻の息子への態度は矛盾しているのである。普通の親ならば、子供の可能性を肯定した上で、励ますように仕向けるようとするであろう。やれば出来る筈だから、頑張りなさいと。それで本当に結果が出るかどうかは別問題である。しかし元妻は息子の能力とか可能性を否定した上で、やかましく勉強しろと言い続けるものだから、私はそのような矛盾した母親からの心理的な圧力の下で、息子の心が潰されてしまうのではないかと心配でならない。これは私は一つの精神的な虐待ではないかとも思えるものである。実際に小学校時代の息子はチック症を患っていて、口が勝手に動いて自分の舌を噛んでしまうものであるが、私は心理的なセラピーや民間療法のオステオパシーという整体術や、小児鍼治療などに奔走したものである。調停や裁判と並行しながらなので本当に大変であった。但し、両親が離婚で争っていいる家庭の子供は、チックを発症することが多いようなので、客観的に言えば元妻の息子に対する態度の在り方だけでなく、私にも責任があるのである。それは認めなければならない。私の妻に対する態度の在り方によっては、妻も息子に対してそのような態度を取らなかったのかも知れない。だから私の方にも責任があることは確かである。それは認める。しかし、ならば男は総じて、馬鹿女に全面降伏した上で対処しなければならないのかと言えば、それは違うと思う。女も男にそういうことは望んではいないであろう。そこにあるのは結局、行き着くところは政治の歪みだけなのである。日本の統治の在り方の問題なのだ。息子のチックもようやく収まってはきたが、息子も小学生のころは母親の言いなりではあったが、男の子は中学生にもなると、母親に反抗するようにもなる。当然のことである。私からは元妻に頻繁に電話をかけて生活の様子を伺っているが、元妻から私の方に電話が掛かってくることほとんどない。たまに掛かってくると、ろくなことはないからドキッとする。勘弁して欲しいものだ。先日もそうであったが、息子と元妻が喧嘩して、どちらが叩いたとか、どちらが蹴ったとか、本当に「女子供」という言葉の正統性が納得されるような再確認されるような次第である。正直なところ、どうすればよいのか私にはまったくわからない。しかし公正に言って、元妻にも確かに如何ともし難い精神的な屈折はあるが、現実に子供の世話をきちんとしてくれていることは事実なのである。元妻は酒も飲まないし、馬鹿人間のするようなパチンコなどは一切しないし、チャラチャラとした贅沢な生活を望んでいる訳でもないし、真面目で善良な一市民なのである。それは確かに事実だ。これをどういう風に考えるべきなのかは私にはわからない。私に出来ることは、このように自らをさらけ出した一つの表現で日本を問うだけである。男であれ女であれ、日本とは何なのか。さあ、答えて欲しいものだ。