龍のひげ’s blog

子供たちの未来のために日本を変革する

健全なる病理

人生とは不可思議なもので、ただひたすら一生懸命に生きようと努力している人がうつ病になったり、心を病んだり、ある日、突然、自殺してしまったりするのに、私のように常に頭の片隅で“死”を意識しながら生きている人間に限って、強健ではなくともそれなりに健全であったりする。
死を意識することによって、生が充実してくると言えばあまりに短絡的だが、それでも実際に、あの世から生命力が精神に注ぎ込まれてくるような感覚はある。“メメント・モリ”(死を想え)という有名な言葉があるが、死の世界は、生きている人間にとって太古の昔からエネルギーの宝庫であったのだと思う。死にゆく人間は、死を想うことが出来ない。ただ死と一体になってゆくだけである。心を深く病んでしまえば、生と死の境界が不明瞭となり、自殺の危険性が生ずる。ふとした時に“呼ばれた”ように錯覚する魔境に入ってしまって、自殺してしまう人は多いのだと思う。だから、“正しく死を想う”ことこそが、“正しく生きる”ことにつながるのだと、私は考える。と言っても、私が想う死とは、あくまで観念の死である。私の肉体そのものは、観念とはまったくの別物で、恥ずかしながらどこまでも無様である。風邪を引いて高熱が出たり、腹の調子がちょっと悪くなっただけで、“死ぬんちゃうやろか。”と、妙に心配性である。自分の弱点をあまりさらけ出したくはないが、極度の高所恐怖症でもある。遊園地のアトラクションで、巨大な鉄柱の周りをぐるぐると、ぶらんこで振り回される乗り物があるが、小さな子供たちや母親が楽しそうに空中の円軌道を回転しているが、私はあれには乗れない。ジェットコースターには、我慢すれば乗れるが、遊園地内を子供用のモノレールカーが5メートル位の高さを時速10キロほどのゆっくりした速度で周回する乗り物が恐ろしい。ジェットコースターはあっという間に終わってしまうが、身体が空間に露出した状態で5メートル下の地上を見つめ続ける時間が耐え難い。これを白状するには勇気がいるが、実は歩道橋ですら怖い。だから歩道橋を渡らなければならない時には、私は一休さんのとんちのように真ん中を歩いていることが多い。平和の象徴のような観覧車にも乗れない。巨大な観覧車の恐怖は、高さよりも密閉された状況にある。見通しの良い強化ガラスに囲まれているので、解放感と安心感はあるが、地震が起こって何時間も高所地点で閉じ込められる状況を想像するとパニックになりそうになる。実は私には少し、パニック症気味なところもある。それで恥ずかしい話だが、私のパニック症的な症状は、常に尿意や便意と結びついている。突発的なアクシデントや災害で観覧車に閉じ込められてトイレに行けない状況を想像すると、僅か20分ぐらいの周回時間が我慢できずに無性にトイレに行きたくなる。同様の理由で、映画は好きなのだが、映画館が苦手である。映画を見ているとなぜか無闇に尿意を催す。だから私はいつもすぐにトイレに行けるように両サイドの端から2番目の座席を指定する。ところが、不思議なもので本当に素晴らしいと思える作品を見ている時には尿意が起こらないのである。だから上映中の私の尿意が、その作品の良し悪しを計るバロメーターになったりする。チリの鉱山で労働者が地下深くに閉じ込められた事故の時には、私は新聞記事を読んだだけで彼らの絶望的な心中を想像して、ちょっとパニックになりかけたのでそれ以後、その事故に関する報道を見るのを一切やめてしまった。そうした所、いつの間にか全員が救出される映像がニュースで映し出されていて、驚くと同時にほっとしたものであった。
私は、そういう人間である。神経的に高所恐怖症であったり、パニック症気味であることと、観念的な死を常に志向することの間に、どのようなつながりや矛盾があるのかないのか、わからないが、正直なところ私自身はさほど問題を感じていないし、先にも言った通り私は自分が“健全”な人間だと思っているのである。その上傲慢にも、自分は人よりも頭が良いとは言えないが、大抵の人間よりは明晰であるとさえ思っている。頭の良し悪しと明晰さは微妙に異なる。明晰さとは区別する能力である。私は、私と他者の違いを明確に区別する思考回路を有するがゆえに明晰である。要するに明晰さとは、態度能力のことである。頭の良し悪しは生まれつきのもので、態度能力とは何の関係もない。生まれつきの頭は良くとも、明晰かつ明瞭な説明や釈明ができない人間は、態度能力が劣っているのである。物事を曖昧にごまかそうとする時には明晰さが足手まといとなる。一口に“頭脳明晰”などと言うが、日本の社会では必ずしも明晰さが重視されているわけではない。むしろその反対のケースが多いと思われる。一方、健全さとは私が考えるに、“正直さ”と関連がある。私は自分で言うのも何だが、基本的には正直な人間である。まあ、正直すぎるのもどうかと思うが、自分に対して正直であることは誰かに迷惑を及ぼすものではないであろう。私は、プロボクサーの辰吉丈一郎が、ボクサーとしてよりも一人の人間として好きである。なぜなら、あれほどまで自分に正直な男は珍しいと思えるからだ。網膜剥離が判明して、国内で引退へと追い込まれようとしていた時期に、人気絶頂であった辰吉のキャラクターや知名度を生かそうと芸能事務所が懸命に引き抜こうとしていた時期があったが、辰吉は頑として応じなかった。辰吉の人生にとって大切なことは金ではないのである。CMの出演依頼も多かったようであるが、私が知る限り一度も出ていない。「俺は、カメラの前でうまいと思えんものを食べて、うまいという顔はようせん。」と何かで語っていたことがあって、私はその一言で辰吉という男が好きになってしまった。一人の人間のセリフで、これほどまでに正直な言葉を聞いたことがない。何千万円もらおうとも、不味いものは不味いのである。そんな男がタレントになれるわけがないのである。また、辰吉の飛行機嫌いは有名なようであるが、その理由が、「あんな鉄の塊が、空に浮かぶのが理解できん。」と言っていたのも私には共感できる。私が遊園地の観覧車や、巨大ぶらんこが苦手なのと同じで、要するに万人が絶対に大丈夫だという総意のようなものに対して、なぜか皮膚感覚的な拒否反応が起こってしまうのだと思われる。そういう意味では、私とプロボクサーの辰吉は精神構造的にはどこか似ているのではないかと思ったりもする。因みに私も、飛行機にはあまり乗りたくない。但し、私の飛行機に対する不安点は、具体的かつはっきりしていて、それは着陸時に機内に格納されている車輪が無事に出てくるか、ということである。今回の原発事故でも同じだが、一般的に絶対に大丈夫だと言われているものを、絶対的に信用してはならないのだ。単純に確率の問題ではない。絶対と言った瞬間にそこには必ず油断が生じる。また無条件に人の言うことを鵜呑みにして信用するタイプの人間は、天災はともかくも事故や事件に巻き込まれる確率が高いような気がしないでもない。自分の臆病さを正当化するつもりはないが、どんな世界でも一流の人間は皆、基本的には臆病だと思う。自分の弱さや欠点が出発点になっていないと、人生は自分の心と他者の目を欺くためだけに費やされることになるからだと思う。死について、踏み込んで述べるつもりであったのに、話しが逸れてしまった。予定通りにはいかない。これも人生だ。