龍のひげ’s blog

子供たちの未来のために日本を変革する

幸せですか。

社会のルールだから仕方ないのかも知れないが、電気料金の支払いを一定期間、滞納すれば、問答無用で電気を止められる。幸い私は、これまでの人生でそのような憂き目に会ったことはないが、小さな子供がいる家庭であるならば、電気を止められて、子供たちは一体どのような気持ちに追いやられるであろうか。そういうことを想像したことがある人は、世の中に何割ぐらい存在するのであろうか。一生懸命に生きようと頑張っている人間でも、失業や倒産などによってそのような悲惨な境遇に陥る可能性は常にある。特に今の日本は、そのような瀬戸際の生活環境の人々が増えているようである。
ところが一民間企業である電力会社は、そのような“不幸な”人々の家庭に電気を止めることに対して、これまでまったく心を痛めているようには見えなかった。あえて彼らの言い分を代弁すれば、それは“政治の領域”の問題であって、一民間企業が関与すべきことではないということだ。家計が逼迫して電気代も払えないのであれば、役所に相談して生活保護を受給すればよいのだ。但し電気代だけはきちんと支払ってもらいますよ、と。それができないのであれば、送電をストップしてもあなた方に文句を言う資格はありません、というものであった。そこに流れている根底の考え方は、資本主義流の“自己責任”ではなかったのか。
電力会社にとっての“公共性”とは、一般大衆の顧客に対しては資本主義的な自己責任の論理を強力に押し付け、自らの企業責任については政府に助けてもらって資金援助してもらうことでしかないのか。
確かに原子力発電政策については、国策的な色合いが強い要素は厳然としてあるから、今回の福島第一原子力発電所事故に関しても一方的に東京電力の責任だけを追及するのは筋違いであるという考え方は正当であろう。しかし原発について絶対に安全だと喧伝して普及に努めてきた各電力会社の責任は少なくとも、国民のものではないはずだ。当然、国の責任も免れないが、国が東京電力の賠償金支払いに対して保証を講じたり、公的資金を投入するのであれば、先ず第一に東京電力会社更生法による清算が大前提となるべきではないのか。東電は一旦潰して国有化するのが本筋だ。東電幹部役員の財産を徹底的に調査、把握し強制徴収しろと言いたい。都合よく社会主義者になって、責任を曖昧に誤魔化されては困るのである。なぜなら本来、路頭に迷わなければならないのは彼らのはずだからである。福島県在住の酪農家が自殺した。このような自殺はまだまだ増えてゆくであろう。地震津波そのものは天災だから誰の責任でもないが、結果責任に対しては、自己責任原則を、こういう時こそ厳格に適用すべきでないのか。なぜなら電力会社だけが原発事故のリスクと経済的なメリットを天秤にかけて日本のエネルギー政策のあり方を発言し得る当事者であったはずだからだ。政治家は所詮、素人である。そこに幾分かの嘘や誤魔化しがあったからこのような深刻な事態に晒されているのではないのか。一方で罪のない善良な人々が自殺に追い込まれている状況で、責任ある立場の人間が報酬を半額に減額しましたと、数千万円もの給与を取りながらのうのうと生きてゆくことが果たして許されるのだろうか。来年から電気料金を16%値上げしますから、みんなで日本を支えていきましょう、というスローガンでよいのか。電気料金の値上げだけでは足りませんから、ついでに消費税も増税しましょう、という論調が社会的強者の弱者に対する啓蒙であることがなぜ、わからぬか。マスコミの誘導は複雑であり巧妙である。さまざまな対立意見を散りばめながら中立を装いつつ最終的に一定の着地点を目指す流れを作ることが企図されている。マスコミが望まざる対立意見の紹介は数ヵ月後に大衆に忘れ去られることを意識して効果的に今、触れられる。彼らはある意味でそういう操作のプロなのだ。だから真正面からじっくりとTVニュースを見たり、新聞社説を読んではいけないのである。“ちらっと”見ること、“ちらっと”読むこと、本質を掴むとはそういうことであるが、言ってわからない人々には何を言ってもわかってもらえないことだけは、わかっている。とにかく、今日の日本という国の悪い慣習は、バブルの後始末でもそうであったが政治権力や大企業などが持ちつ持たれつの関係を維持して、国民の目を誤魔化し、そのしわ寄せを弱者たる国民に押し付けようとすることである。民主党政権はそのような社会構造を是正するために誕生したはずではなかったのか。そのことだけは、皆様にわかっていただきたい。私の幸福のためには、あなたの理解が必要なのである。その逆もまた真なりだ。