龍のひげ’s blog

子供たちの未来のために日本を変革する

詩人の証明

誰かに理解されたり
認められたり
愛されることが、人生の唯一の目的ならば
私は、もうすでに死んでいるようなものである。
でもそれでも、いいじゃないか、と思う。
死んで生き、生きて死ぬ。
そういう風変わりな人間が、この世に一人や二人はいなければ
世界は、変われないのじゃないのかな。
生きているのか、死んでいるのか、わからないような
奇妙な人間は、意外と天使とは相性がよいものだよ。
なぜか心が通じ合うのだ。
もちろん自分勝手な思い込みに過ぎないのだけどね。
それにしても天界の天使や悪魔たちは、とてつもなく忙しそうだな。
もうこの星は、一刻の猶予もならない状態にまで
追いやられているのか。
だから我々が一般に悪魔と呼ぶ堕天使までもが、
太古の昔の善良な心を取り戻して
地球を救うために、天使と共に活動をしているようである。
文明が崩壊すれば、悪魔の遊び場がなくなるからであろう。
それで天使や悪魔たちは、ちょっと使えそうな人間を探し出してきては
人間界の意識を向上させるために
インスピレーションを注ぎ込むことに懸命のようだ。
私にも天使の囁き声が、聞こえるように
思える時もある。
だけど、どうなんだろうな。
もちろん地球のことは心配だけど
私に出来ることと言えば、天邪鬼にも
(本当は、天邪鬼とは思っていないのだけれど)
ただ、ひたすら否、と叫び続けることだけである。
私は、森の木を切り倒すように全てを否定する。
外部世界の社会体制や、他者だけでなく
私自身の存在(感)をも否定する。
なぜなら私にとって、
私の認識を曇らせたり、
見通しを悪くさせる遮蔽物が存在する状態が、
おぞましき呪い、そのものだからなんだよ。
よって私にとって私の肉体も、一つの呪いである。
私は自らの呪いを切り裂くために
激しく否と言う。
だから結局のところ、最終的には
私は、自らを救うためだけに
生きているとも言えるのかも知れないね。
もちろん私が救う私の奥底には、
私以外の他者も内包されているのだという
確信に近い信念があるのだけれど。
自らを救えずして、他者を救わんとする
宗教者的な偽善に陥りたくないという
思いもある。
だけど、どうなんだろうか。
やはり私の本質は、世間の人々の理解の外にあることは間違いないし、
また私が本来、孤独で寂しいだけの凡庸な人間であることも
疑いようがない事実なのだから、
天使であれ、悪魔であれ、私のような人間に
天界に存在する方々の、ご要望に沿えるようなことを
果たせる能力は何一つとしてございませぬ、としか言えないね。
だからこうやって、つまらない
詩とも言えぬ詩の言葉を打ち連ねることだけで
私の人生は、精一杯なのだ。
だけど、ある意味ではそういう
無能の自覚と、根拠なき傲慢さの融合が
詩人としての証明ではないかとも考えたりもする。
詩人とは、扱い難い人種である。
誰かに支配されることも、誰かを支配することも、忌み嫌う。
誰かに啓蒙されることも、誰かを啓蒙することも、
どこか不自然だと感ずる。
純粋であるがゆえに、純粋であるだけで
無能の分際で、とことん傲慢になれる。
それが詩人である。
私は、全世界に否と言う。
それはとても傲慢な態度なんだ。
なぜなら誰にも、何にも迎合しないとしないという
宣言みたいなものだからだ。
私の何万回もの否の言葉は、やがて鋭利な刃となり
虚無をも彫り進めてゆく。
否、否、否。
苦しみもなければ、悲しみもない。
生まれるものも、死ぬものもない。
増えるものも、減るものもない。
否、否、否。
あの世も、この世もない。
清らかなものも、穢れもない。
私も、あなたも存在しない。
否、否、否。
そうしたところ虚無の深奥から
彫り出され、浮かび上がるように、
神の御姿が現れる。
神とは、人間の認識にとっては
消去法のみで感得できるものなんだな。
やはり神の実在だけは否定しようがない。
神こそが宇宙の真実であり、万物の根源だ。
神は、天使や悪魔と違って
何かを思い出すように
永遠の沈黙に微睡んでおられる。
正直なところ私は詩の言葉を紡ぎ出すのが
怖くて仕方ないのだ。
傲慢に世界を否定するのはともかくも、
軽はずみに、ふざけた言葉を打ち連ねようとすれば
大地を揺るがすような雷鳴が鳴り響いて
私は震え上がってしまうのだ。
だから私は一人で静かに祈り続ける。
世界が平和でありますように。
日本にこれ以上の災いが起こりませぬように。
貧しき者や、弱き人々こそが
美しい心を保てる世界でありますように。
小さき子供たちが、これ以上
無慈悲な死に方をすることが決してありませぬように。
そして何よりも私自身が、今以上に幸福に
なれますように、と。