龍のひげ’s blog

子供たちの未来のために日本を変革する

夏の生命

台風が猛暑を払ってくれたからなのかどうか知らないが、この2~3日はそれほど暑くはなかった。問題は8月と9月だ。
それはそうと日本の夏は蒸し暑くて、ただでさえ不快なのに、その上に不快極まりない生き物まで現れる。そう、ゴキブリである。我が家では多少の親しみを込めて、“ゴキさん”と呼ぶこともある。なぜ“ゴキさん”なのか、その命名の由来は定かではないが、ただ一つはっきりしていることは家の中で我ら(厳密には私)の目に触れられた時点で、そのゴキさんには死んでもらわなければならないということだ。窓から外に逃がしてやろうとなどという仏心は持ち合わせていない。そもそもそのような親切心が通用するような輩ではない。
“見られし罪”で殺される不憫な生き物に対して、後ろめたさも心の痛みもまったく感じないが、それでも束の間の残余の生存に、ゴキさんと、さん付けで呼んであげなければならないのが人間世界の礼儀というものだ。
ところが今年はどういう訳か、あまり見かけないのである。母がどこかで買ってきた食べさせて死なせる駆除剤の、小さな透明のプラスチック容器に入った可愛らしい紅色の毒が効いているのであろうか。例年であれば今の時期には夜中の2時ごろにトイレに行こうと1階の居間に下りてきて電気を点けると、必ずテーブルの上に大きなゴキブリが、ちょこんと鎮座していたものである。本当にあいつらだけは身体は小さいが、存在感だけは異様にある。またあの可愛げのかけらもない形といい、黒々とした忌まわしい体色といい、がさごそとした不吉な動きといい、地球上でもっとも人間に嫌悪感を感じさせる、ある意味で芸術的な生命体であるとも言えよう。私はゴキブリを退治する時にスプレー剤は使わない。部屋が臭くなるし、即効で死なないからである。もっぱら、スリッパか丸めた新聞紙を持って叩きつける。それが今年は今のところゴキブリを見かけないので、別に寂しくはないけれど、拍子抜けと言うのか、私の夏の仕事が一つ減って楽にはなったが何となく気分的にすっきりしない。それでも“小物”ではあったが、2匹ほどと遭遇した。
1匹目の時には私はトイレのスリッパを持って無心に狙いを定めていると、計らずも菅首相のことがイメージされてきて、心の中で“南無三”と叫んでバシャっと叩いてやった。すると私の手元が狂ったのか、そのゴキブリはするっとスリッパをかわし洗面所の調度品の隙間奥に逃げ込んでいきやがった。畜生、運のいい奴めと忌々しく思ったが、後の祭りである。そしてその2週間後ぐらいに同じ奴かどうかはわからないが、また見つけたのである。今度は意識的に菅首相のことを想像しながら、いい加減に観念しやがれと恨みにまかせて、またトイレのスリッパで叩き付けた。そうした所、また、するっと逃げられてしまったのである。おかしいな、去年まではこんなヘマはなかったのに、と思っている時に、私はふいに豁然と悟ったのである。一応、念のために言っておくが、これらのことは冗談で面白おかしく話しを作っているのではなく、基本的に全て事実である。私はつまらない嘘はつかない。庭の掃除をしている禅僧が竹箒に小石が当る音を聞いて、悟りを得るという話があるが、私の場合は、スリッパでゴキブリを叩き損ねた時に悟ったのだ。本当は悟ったというほど霊妙なものではないが、正確には、わかったのである。菅氏の“延命能力”にはゴキブリ的な魔力が宿っていることを。そう言えば、思い当てる節もある。大体が“死んだふり”などという欺きはゴキブリが得意とする能力である。スリッパはともかく丸めた新聞紙や雑誌などで叩いて命中した時に、じっと動かなくなるのでてっきり死んだものだと思う。それで死骸を掴み取るためにティッシュか何かを探して目を一瞬離した隙に、一目散に逃げられて唖然としたことが何度もあった。菅氏も内閣不信任案が採決される直前に、退陣を表明して死んだふりをした。それで国民が一瞬油断した間に、奇妙な屁理屈を唱えて、今も政界を這い回っているではないか。菅氏はいつ、ゴキブリの神からそのような死んだふりの秘術を伝授されたのであろうか。ともかく、これは一つの大いなる戦いだ。いつまでもそのような卑しい人間に権力の頂点に居座り続けさせてはならない。ここにおいて決して勘違いしてはならない了解事項がある。仏教において殺生は禁物である。たとえゴキブリであろうと、ただひたすら生き延びようとする生命そのものは、神の目から見れば人間の命と同じぐらい尊いものであるのかも知れない。しかし我々、国民が大いに問題にし駆除しなければならない事柄は、政治の世界に巣くうゴキブリのごとき権力の卑しさである。生命が人間や動植物の身体にのみ宿ると考えることは、私に言わせれば、即物的で次元の低い見解である。卑しさや傲慢さの観念そのものにも目には見えない悪霊のごとき生命力が備わっている。様々な法律を作り、人民を統治する政治の世界が、そのような悪霊の支配下にあれば、間違いなくその国の国民はどん底の不幸を味わうことになる。そういうことが自明のこととしてわかるかどうかが、人間本来の知性ではないのか。よって菅首相に対して、心底、腹が立たない人間は知性があまりに低すぎる最下級の市民階級に属していると区分できよう。
ともかく権謀術策ばかりで本当の良心を持ち得ない政治家は、首相としてはその人格そのものが一つの限界であることを菅氏はよく体現している。またもし、そういう人間こそが日本の首相に相応しいのだとすれば、そこに日本という国家の限界が示されているのであり、我々国民はその限界の根源を目を逸らさずに注視して、よく考えなければならない。ヒステリックに目の前のゴキブリの如き卑劣さを追い出したところで、その後には、より巧妙に国民を騙そうとする第二、第三のゴキブリが現れるであろうことは火を見るよりも明らかだ。菅氏など、こう言っては何だが、あまりに小物過ぎて私のような一般市民にまで考えていることが手に取るようにわかられてしまうのだからある意味で正直者である。これが大物となると、ちょっと何を考えているのかわからなくなる。いずれにせよ政治家は嘘が通用する限り、どこまでも国民を騙そうとする。だから我々国民は、簡単に政治に騙されないことを、その都度声を上げて証明してゆかなければならない。菅の後に続く体制の在り方を政治家はだれ一人として考えることができない。だから我々国民が考えてゆかなければならないが、個人的見解で言えば前にも述べた通り、国政には本当に何も期待できない。国政の権限が縮小してゆくことだけを期待するのみだ。
さあ、政治家どもよ、心に良心のスリッパを持ち、菅をコーナーに追い詰めよ。菅を叩き潰すのではない。菅という名の卑しさを駆除するのだ。それは殺生ではなく、功徳を積む行為だ。但し、用心せよ。ゴキブリはコーナーで逃げ場がなくなれば最後には飛ぶぞ。めったに使わないが、黒光りする羽を持っているので飛び逃げることも出来るのだ。それは言うまでもなく解散総選挙の比喩である。ゴキブリが飛んだくらいでうろたえずに、冷静に日本のことを考えろ。
また、いやしくも一国の総理をゴキブリ扱いするとは何事かと、お叱りの声も聞こえてきそうであるが、そう思う人は雑念を払って一人静かに菅氏のことを観想しつつ瞑想するがよい。きっと菅氏の顔が・・・いや、もうこれ以上は言うのを止めておこう。