龍のひげ’s blog

子供たちの未来のために日本を変革する

右翼と左翼

右翼と左翼の概念区分が、正直なところ私には今一ぴんと来ないと言うか、よくわからない。私自身を考えて見ても右翼的なところもあれば、左翼的なところもある。日本という国を愛しているのかと問われれば、愛しているような気もするし、全然愛していないような気もする。それは愛すべき国の定義によるから一概に言えない。三島由紀夫のように憂国の激情で自決できるかと問われれば、自分には絶対に出来ないとしか答えられないが、三島の心情は理解できるし、シンパシーを感じるところは大きいので、そういう部分においては私は右翼なのかも知れない。また日本の伝統や歴史を大切に思う気持ちはあるから右翼だが、現在の日本の権力や権威に対しては徹底して左翼的なスタンスである。つまり右翼的、あるいは左翼的な思考や感性の特徴となる傾向性はあるのかも知れないが、一人の人間において右翼的な部分と左翼的な部分は共存している状態が私は健全だと思うのである。
我が家では新聞は、読売新聞と朝日新聞の2誌を取っているが、私は必ずしも読売が右翼の読む新聞で、朝日が左翼の読む新聞だとは考えていない。ただ、朝日新聞の論調は確かに10年前に比べれば先鋭的な気配がなくなって大人しくというか穏やかになってきた観はある。あえて違いを探せば、朝日は日教組や女性団体などの紙面構成上の思想的な中核となるべき団体に配慮を示している部分が残っている位で、アメリカに対する外交姿勢について言えばどちらも似たり寄ったりと言うべきか、少なくとも朝日が反米であるとは到底言えない。読売が親米志向であることだけは不変である。と言っても私は2紙とも熟読どころか ざっとすら見ないことも多いので偉そうなことは言えないが、その程度のことはわかる。しかしこれを以って果たして世の中の右傾化が進んでいると言えるのであろうか。ネット空間においては韓流ブームに対する批判が盛んで、一部の識者はこれをネトウヨの増大などと侮蔑的に批判するが、私は右翼とか左翼の狭い枠組みの視点と立脚点だけから社会分析すれば必ず本質を見失うことにつながるのだと考える。確かに私も以前に述べた通り、韓流ブームなど所詮は放送局側における商業ベースの問題であり、見たくない人間は見なければよいだけのことだという理屈は正論であり私も個人的にはそう思うが、一面において自然発生したものではない作為的なブームをマスメディアを通して大衆に押し付けられるかの不快感は本質的には右翼のものでも左翼のものでもないはずだ。よってネット空間やデモによる韓流批判は一つの人為的な流れに対する健全な反動であるとも見れるものであり、その健全な感性を右翼か左翼の枠組みに当てはめて論評する人は本当は社会のことが正しく見えていないのではないかとも私は考える。このように要するに右翼や左翼の概念的な枠組みが思考の出発点にくると、見え方が歪むのだ。この歪みを是正することがいわゆる“戦後レジュームからの脱却”だと私は思う。但し日本の歪みはあまりにも大きくそう簡単に抜け出せそうなものでもない。日本人の精神性の根本とはやはり憲法にゆきつくものであり、戦後レジュームからの脱却とは自主憲法の制定にしかない。ところでこういうことを主張する私はやはり右翼なのか。別にどうでもいいけど。