龍のひげ’s blog

子供たちの未来のために日本を変革する

国政の闇

昨年末に読んで感想を述べようと思いながら、面倒臭くなってそのままになっていたのだが、消費税法案が国会に提出され日本の未来を大きく揺るがす事態になってくると今後の政局の推移を見極めつつ、やはり一言意見しておかなければならない。その本とは、橋下徹氏と堺屋太一氏共著の『体制維新―大阪都』(文春新書)である。私はこの本を2回熟読したが、要旨を大雑把に一言で述べれば、橋下氏が主張するところの「国家単位の成長戦略は限界がある」という見解に尽きるものである。私個人の考えでは、“限界がある”という以上に“無意味(ナンセンス)である”とすら言い得るのではないかと考えている。たとえば消費税増税の要件に、経済成長率の数値条項が取りざたされているが、それでは具体的な景気対策として国の政治が何か出来るかと言えば、実際には処置なしと言うか、国会議員の頭の中には見通しも計画も何もないのである。もちろん所信表明などで総理大臣が、“成長戦略”という言葉を使うことはあるが、その内容は単に時の政権を権威付けるための装飾言葉とでも言うか、官僚が作成した空疎な作文に過ぎない。現在の民主党政権に限ったことではないが、これまでの自民党政治にあっても景気対策と言えば、たとえば一時的に公共工事を増やして金をばら撒いたり、あるいは中小企業向けの倒産対策に緊急融資を実施したりだとか、どう見てもその場凌ぎとしか言えないようなものばかりで、とてもではないが、中、長期的な成長戦略に基づいて日本という国が運営されてきたと言えないものであった。全体的に日本という国が成長基調に乗っていた時代はそれでよかったのである。国は様々な規制を作って、その許認可の枠組みにおけるルールと利権構造を守っているだけでも、GDPは勝手に右肩上がりに成長していたのだ。しかし今の時代はそうはいかなくなった。国家単位での思考では無理なのである。橋下氏が主張するとおり、都市がその地域の実情に合わせた緻密な戦略を打ち立てることによって、世界の各都市との競争に打ち勝っていかなければならない。それでは国の政治が、各都市個々に適した相応しい戦略を作れるかというと、それは不可能なのだ。国という機関は丼勘定のように金をばら撒いたり、反対に引き締めたりする以上のことは出来ない。そこには国家財政という大きな財布とその財源を背景とした権限があるだけである。だからこそ国の役人は地方の疲弊に対して無関心というか冷淡なのだと思われる。よってこれからの時代は考え方を根本的に改めて、地方各都市の独立した戦略の総体というか、それらの調整やマネジメントがこれからの日本という国の成長戦略とならなければならない。もちろんそのためには、地方に自主的な運営を可能にする財源と権限が付与されなければならない。地方の自立と発展がなければ、日本という国は存亡の危機から免れないのだ。しかしこの地方分権を巡る改革運動は、かなりの困難を伴うものと思われる。橋下氏がわかりやすくコンピュータのOSとソフトの関係で説明していたが、日本は昔のシステムに対応したソフトしか動かないような体制になっている。まさにその通りだ。そしてこのOSを書き換えようとすると、そこには大変な抵抗が生まれることとなり、半ば戦争(内乱)に近いような状態が発生する。私が危惧するところは、橋下氏が果たしてどれだけ自覚しているのかわからないが、その旧型OSの一番の担い手というか、支配勢力が実はマスコミなのである。私の見方では、明らかに大手新聞社やTV局は地方分権に批判的であるし、よって維新の会に対しても攻撃的である。マスコミ問題の本質は、国民に真実を伝えるというジャーナリズムの使命から大きく逸脱して、戦時中の大本営発表のように、一元管理の下での地位と収益構造に依存しているところにあるのだと思われる。情報の一元管理を破壊する地方分権は、マスコミにとっては極めて都合が悪いので敵ということになるのであろう。その理由をわかりやすく言えば、国民への国策的なモラルや政策を通じての誘導や洗脳が効かなくなるとマスコミは広告収入を生み出し難くなるし、政治的な影響力も低下するからだ。国民意識地方分権によってセグメントされれば、これまでの全体的なムードに乗じたようなマスコミの金儲けのやり方は通用しなくなる。もっと端的に言えば、地方分権下では国民を騙し難くなるということだ。その背後には当然、財務省などの強力な官僚組織や警察、司法界などの影もあることであろう。橋下氏が大阪府知事や、大阪市長としての立場で地方分権を主張しているだけでは大きな問題はなかったであろうが、維新の会が国政進出するとなると事情はまったく異なった様相を示すことになるであろう。私のような政治の素人がこういうことを言うのも何だが、敢えて老婆心で言えば、橋下氏はどれだけ国政の闇の深さを理解しているかにおいて非常に心配である。大阪都構想や、その後の地方分権道州制を進めてゆくにあたって下手にマスコミと良好な協力関係を築こうなどと考えるべきではない。そのような甘い考えは油断につながり、潰されることになる可能性が高い。思考に甘さがあれば、改革が向かうべき正しさによって守られることはなくとも、純粋に考えの甘さという、それだけの罪で必ず失敗することになるであろう。そういうことだ。