龍のひげ’s blog

子供たちの未来のために日本を変革する

平気で嘘をつく人

平気で嘘をつく人は、世間に多い。あなたたちの身の回りにもいるであろう。尤も厳密に言えば、人生で嘘をついたことのない人というものは存在しない。誰もが一度や二度は、誰かに嘘をついた経験を心に抱えて生きている。しかし私の言う、“嘘をつく人”とは、人生における一世一代の大嘘や、止むを得ない方便としての嘘ではなく、もっと日常的に、頻繁に、条件反射のように嘘をつく人のことである。そういう人は嘘をつくことを悪びれるところがない。まるで生活の一部のように、子供がズボンのポケットからあめ玉を取り出すように無造作に嘘をつく。嘘をつくことを何とも思っていないのである。嘘つきの特徴は、物事を深く考えないことである。決して馬鹿だというわけでもないが、道理や本質とは無関係に生きている。そういうことは哲学者だけが考えればよいのであって、人生とは何の関係もないと思っている。風が右から吹けば右に流され、左から吹けば左に流される。そして周りの状況に適当に調子を合わせるが、何かしら都合が悪くなって自分の立場が悪くなると平然と嘘をついてごまかそうとする。うまくその場を取り繕うこと、言葉巧みに相手を納得させて切り抜けることが嘘つきの処世術である。また嘘つきにとっての嘘は人格の一部になっているから、そう簡単に矯正されるものではない。しかしある意味で嘘をつくこともコミュニケーションの一つであるとも言える。私のように道理や本質にこだわるタイプの人間よりも嘘つきは遥かにコミュニケーション能力は高い。人付き合いが上手いとも言える。所詮、俗世の人間関係など嘘と嘘の絡み合いの中で育まれているのだ。人と人との関係性においては、道理はともかく、事の本質など何の値打ちもないのである。むしろ本質を隠すために嘘が必要であるとも言える。適度に道理を保ちながら、嘘と真実を取り混ぜて生きてゆくことが人生である。そういう意味では、元々日本人は嘘に対して寛容な国民性であると言える。嘘そのものを絶対的な悪だとは看做していない。良い嘘(許される嘘)と悪い嘘(許されない嘘)があると多くの人は考えているのだと思われる。一方、キリスト教社会の西欧人は、人生の根底において神との関係性という視座があるから、基本的には嘘は絶対悪なのだと思われる。嘘をつくことは神を裏切る行為であり、死後、地獄に堕ちるかも知れないという無意識の恐怖感がある。日本人にはそのような恐怖はない。さて、どちらが幸福なのだろうか。一概に決め付けることは出来ないが、日本人であれ西欧人であれ、また仏教徒であれキリスト教徒であれ、神仏との関係性に生きていない人間には神仏の恵みを受けることは有り得ないであろうと私は考える。人が、神仏との関係性に深く入らずして地上的な願いを適えて欲しいと祈ることは、調子が良すぎるのではなかろうか。もちろん神仏との関係性に立ち入ったからといって、必ず願いが叶えられるとは限らないが、一旦その領域に入ってしまえば恐ろしくてそう簡単に嘘などつけなくなる。嘘がつけなくなると、必然的に虚飾から離れて、本当の自分自身や物事の本質、道理を見つめなければならなくなり、その結果、神仏の加護が得られたように人生が安定したり、好転してゆくことはあると私には思われる。
私には日本人にとっての嘘の象徴が、民主党マニフェストだと思われるのだ。一旦、国民に対して約束したことをすぐに諦めて撤回したり、方針変更することを野田総理や、前菅総理は“許される嘘”だと考えているのであろうか。自分たちの嘘によって、国民の政治不信、政治離れ、民主主義の劣化がより一層進むことになろうともどこ吹く風である。むしろ平然と国民に嘘をつくことが自分たちの仕事であり、特権であると考えているようにも見受けられる。しかし市井の人が、近所づきあいの中でちょっとした嘘をつくのと同じようなレベルで、政治権力者が平然と国民に嘘をつく行為は、いかに日本人が嘘に寛容であるといってもそう簡単に許されるものでは有り得ない筈だ。政治家の言葉、約束には、国民の生活、財産、生命が託されているのである。そのためにこそ政治活動には国民の税金が膨大に費やされているのである。消費税増税にしても、マニフェストの約束を平然と反故にしておきながら、野田総理は消費税増税に命を掛けるなどとは倒錯も甚だしい。自分たちが選挙によって国民から権力を付与された時点の言葉に、命を掛けなければならないことが当然ではないのか。そうでなければ国民にとっては選挙の意味すら喪失することになる。総選挙だけでも800億円もの費用が掛かっているのである。日本が財政難だと訴えるなら、自分たちの嘘のためにそれだけの血税が費やされたことには心は痛まないのか。また嘘よりもさらに悪質な行為が、国民のために公開しなければならない情報を隠蔽することである。嘘にはまだ幾分かの真実と無能なりの決意表明が含まれているが、権力者が国民の生命に関わる重要情報を隠す行為は確信的な犯罪であると言える。原爆事故発生直後に、放射性物質の拡散予測システム、SPEEDI(スピーディ)の結果が公表されずに隠された。民主党の関係者は、仮定の数値入力による予測結果だからだとか、パニックになることを避けるためだったなどと本末転倒の言い訳をしているようだが、決して許されることではない。仮定の数値であろうと何であろうと、その正確性の前提条件も含めて迅速に、付近の住民に対して情報公開し説明されるべきであったのは当然である。政府がそのような対応を取っていれば公開したところで、決してパニックになどならなかったであろう。そのための予測システムではないのか。国民の生命を軽視しておいて、混乱を防ぐところに何の価値があるのか。まさに民主党らしい判断である。“嘘つきは泥棒の始まり”、とは言うが、民主党にあっては“嘘つきは人殺しの始まり”である。福島県浪江町馬場町長は躊躇することなく、国の責任者を刑事告発するべきである。そうでなければこの先も同じようなことが何度でも繰り返されるであろう。嘘つきの権力者の下では、国民の命は羽毛のごとく軽くなるということだ。