龍のひげ’s blog

子供たちの未来のために日本を変革する

とんでもない国の精神構造

憲法改正と言うと、共産党は改悪だと言うから、改定と言うことにしている。しかし正と悪にどれほどの違いがあるのか、正直なところ私にはよくわからない。国が決めることは、いつだって正しいのではないのか。死刑だって正しいし、戦争中に人を殺すことだって正しい(とされる)。結局のところ社会の善悪を最終的に決定する役割が国家権力であるとも言える。正も悪も国家レベルで見れば相対的な価値観念に過ぎない。しかし自主的なものか、押し付けられたものであるかは国家にとって時代の移り変わりの中で相対的に計られる尺度ではなく、普遍的な絶対基準と言える。国家である以上、善悪の基準は揺らいでも、主権の自主性が大前提となる事実だけは変わらないということだ。世の中には、憲法9条はGHQから押し付けられたものであっても戦争放棄や平和は人類にとって普遍的で恒久の価値を持つ崇高な理念であるから絶対に改めるべきではないと考える人が多いのであるが、私にはその感覚が理解できない。もちろん押し付けた当事国のアメリカが未だに世界中で戦争ばかりしているということもあるが、編纂段階で自主的、主体的に関われていない憲法条文の文言が本当に国家精神の血や肉となって未来永劫、国家繁栄の礎に成り得るかというと、到底私には信じられないのである。確かに戦後の日本は敗戦の廃墟の中から立ち上がって見事に経済大国にはなった。しかし、この10年間ぐらいの凋落、後退のありさまを見ると、それまでは一時的な経済繁栄の陰に隠れて見えなかったことであろうが、本当に日本は独立国家なのかと疑われることばかりである。政治にも報道にも、そして教育にも日本の国益を中心にして社会を作っていこうとか、世界に向けて発信していこうという姿勢がまったく感じられない。皆無である。もちろん国際貢献が必ずしも悪いとは言わないが、日本の国益があってこその国際貢献であり、日本の国益を無視してまで、日本よりも諸外国の方が大切だということであれば日本という国の存在意義がないではないか。私はこういう日本の現状は、全て戦争放棄の条文から来ているのだと見ている。というと多くの人には理解もされないであろうし、誤解も多いであろうが、突き詰めればそういうことだと私は思うのである。そして現に戦後70年近くになって自然と時間によって突き詰められたところの現実が、必然的に醸成されているのだと思う。私は憲法9条の条文から戦争放棄の文言を削除するべきだと思う。といっても直ちに軍備を増強して、明日にでも戦争し得る国に変身しろと言っている訳では当然ない。寧ろ反対である。そういうことではなくて、戦争放棄憲法に明記しなければ戦争を回避できないものではあり得ないであろうし、またそのような立派なことを謳ったところで現実には他国の威嚇行為や侵略に対して何の抑止力にもならないということだ。かと言って、憲法から戦争放棄の一文が消えたからと言って左翼の人間が心配するように日本が将来的に戦前の軍国主義に回帰するとは考えられない。要するに戦争放棄の条文が有ろうと無かろうと、日本の安全保障や世界的な地位、評価にとって大した違いはないということだ。戦争放棄憲法に謳わなくとも、戦争を回避するように今と同様に努力し続ければよいだけのことではないか。日本の国防や世界の地位に戦争放棄の条文が実質的に何の効力がなくとも、弊害は有ると思う。それは戦争を放棄しますとは、戦争だけならまだしも、国家レベルの精神構造として見れば国の全ての主権を放棄します、と宣言しているのと同義だと私には思えてならないということだ。その解釈は飛躍があまりにも大き過ぎると憤慨する人が多いであろうが、果たしてそうだろうか。本当に飛躍が過ぎるであろうか。最終的には言葉というものに対する感受性や知性の質にもよるのであろうが、確かに私が馬鹿なのかも知れないが、私は飛躍だとは思っていない。戦争を放棄するとの宣言は、国家意識を放擲することであり、国民の生命や財産を犠牲にしてでも国際関係を重視しますと言っているのに等しいと思う。戦後70年かけて煮詰まってきた現実とはそういうことではないのか。今の民主党の政治を見ていても果たして飛躍だと、私を批判出来るだろうか。
戦争放棄の戦争とは、私の解釈では侵略戦争の意味だと考える。先の太平洋戦争においても日本はアメリカの要求通り満州から撤退していれば戦争を回避できたのであろうが、日本は満州の利権を手放すことが出来ずに、アメリカと戦争をせざるを得ない状況に追い込まれてしまった。しかしこれからの日本がそのような侵略行為を再び繰り返すとは時代状況的に到底考えられない。しかし侵略を受ける可能性は日に日に高まっている。それだけは動かしようのない事実だ。戦争という言葉の定義にもよるが自衛のための闘いであっても、双方の軍事力がまともに衝突すれば当然、死者も出るであろう。一般人が砲弾やミサイルの犠牲になることだってあり得るだろう。一旦、そのような状況に陥ってしまえば、憲法戦争放棄を定めていようが、自衛と戦争行為の線引きを役人がどのようにこじつけようとそこに騒乱状態が出来することに変わりない。もうそろそろ日本は言葉をいじくって現実をごまかそうとする悪習から離れなければならない。言葉で現実を変えられないのだ。仮に自衛隊国防軍と呼び変えても、海外の人間にはそのような微妙なニュアンスの違いは分かるはずがない。玉虫色の表現で何となくその時代の空気を取り繕っているだけのことだ。日本軍でよいではないか。少なくとも欧米人にとっては自衛隊国防軍も日本軍も同じであろうが、韓国や中国がうるさいのであれば旧日本軍と区別して新日本軍にすればよい。とにかく憲法9条を改定しろと言えば、共産党社民党朝日新聞が、そしてそれらの組織の主張に同調する人々が強固に反対することだけははっきりとしているが、私に言わせれば共産党社民党朝日新聞憲法9条の護持にこだわるのは、平和のためというよりも組織の存続にとってのレゾンデートルになっているからだと思われる。レゾンデートルの部分を変えると組織が消滅する危険性に晒されるからそのイデオロギーに執着せざるを得ないのであろう。わかりやすく言えば、組織の体質が古くて時代の変化に柔軟に対応できないでいるということだ。これも日本にとっては根本的な問題で、もちろん民主主義がファシズムに陥らないために対立意見が必要なことは認めるが、国破れて山河あり、ならぬ、国破れてイデオロギーありの惨状を呈しているとも言える。そのくせ国が破れることへの方向性に関してだけは、どういう訳かあらゆる政党、マスコミがファシズム的に一致団結して協力し合うのだから本当に今の日本はとんでもない国である。日本と言う国の精神分析は中々に厄介だ。