龍のひげ’s blog

子供たちの未来のために日本を変革する

お愛想の問題

まあ別にどうでもいい事だけど、私は関西(大阪)人で、BARなどで勘定をする時に、「おあいそ。」と言う。ところが物知り顔に、その言葉の使い方は語源的に間違っているという人がいる。その解釈によれば、あいその用法とは“愛想なしで申し訳ありませんでした。”の意味なので、店の人が客に対して使う言葉であって、客が店の人に使えば“愛想が尽きたからもうこの店には来ない。”ということになり、非常に失礼であり、また恥ずかしい使い方だ、ということになるらしい。ところが、広辞苑の辞書などには、あいそ(愛想)は、お―の形で、飲食店などの勘定、と記載されている。よって、あいそ(勘定)をしてくれ、と客が店の人間に言うことは辞書的に見ても決して間違ってはいないのである。日本語の中で現在の使われ方が語源と大きく隔たっているケースなど、無数にあるであろう。どうして、“おあいそ”という言葉だけがそれほど語源に囚われなければならないのか、私にはわからない。またいつから日本の一般大衆は日本語の語源にそこまで拘るほどに教養深くなったのであろうか。そこもまた私には理解に苦しむところである。恐らくは、それもインターネットの影響なのであろうが、何でも直ぐに手軽にパソコンで検索して調べて安直に絶対視する風潮から、自分なりの思考や感性で言葉を解釈して使うということが少なくなっているのではないであろうか。もちろん、あまりに独自的な解釈をしていれば言葉本来の役割としての、コミュニケーションが成り立たなくなるから、万人に共通の基準が必要であることは事実である。しかし語源よりも私は言葉のニュアンスというか、現代的なイメージの方が大切なことが多いと思う。
たとえば、会計という言葉があるが、飲食店で代金を支払うことをお会計とも言うが、私のイメージでは会計と言う言葉は仰々しいというか、堅苦しいというのか、距離感が遠いのである。会計とは、“公認会計士”であったり、“企業会計”の文脈で使われるところの金の問題である。つまりは金の規模が大きいのだ。企業間で数百万円、数千万円の金の支払いをする時には、間違っても「おあいそ。」などとは言わない。清算する、という。それと同様に、数千円程度の飲食費を支払う場合には、ファミリーレストランのように店の人間と客のコミュニケーションが無いケースでは金額が少額でも、心理的な距離感があり、また個人的な会話や接触がないので“会計”という言葉で違和感はないが、バーや鮨屋のように客と店主の心理的な距離感が近しい場合は、お会計やお勘定、よりも、“お愛想”の方が、相応しいように私には思えるのであるが、いかがであろうか。一期一会の出会いの中で、僅かなりとも世間話を取り交わす関係性は、たとえ店の主人と客の立場を取り換えた所で全ては愛想みたいなものではないか。だから勘定の時には、多少の親しみを込めて“お愛想”というのが正しいのである。それを語源がどうだとか、金を払う客が偉いのか、店の主人の方が客よりも優位にあるのか知らないが、数千円或いは数万円程度の金で必要以上に言葉に内在された序列にこだわる態度は、私には妙に官僚的というのか、はっきり言って貧乏臭く思えてならない。またこういうところに、日本型権力の縮図というべき官僚支配の精神性が現れているようにも感じられる。要は、立場が変わると卑屈から尊大に急変する人間が多いということでもある。そのような人間が象徴的に、“お愛想”という言葉の権威が客にあるのか店主にあるのかに拘らずには得ないのであろう。卑屈から尊大に急変すると言う点においては民主党政治を政権獲得前のマニフェストと現在の状態を比較してみれば、よくわかることであろう。全てはつながっているのである。お愛想という言葉の用法と政治もだ。