龍のひげ’s blog

子供たちの未来のために日本を変革する

英語のお勉強

恥ずかしながら、いや別に恥ずかしくはないけど、最近私は英語の勉強を始めた。高校時代に英語が得意であった姪が、今年の4月に外国語大学に入学したこともあって、私も負けてはならない(という訳でもないが)、自分なりに英語に取り組んでみようという気になった。それで思ったのだが、英語は中々に面白い言語である。と言っても、実力的には全然、文章を読解するところまで行かないのだけど、英単語を見ているとそう思えるのだ。たとえば最近、覚えた単語にinherentという言葉がある。これは性質・属性・権利などが~に本来、備わっている、生まれつき存在するという意味の形容詞である。inhereという自動詞(本来備わる、含まれる)の語尾にntが付いて形容詞になっている。inherentの語尾にlyが付くと副詞になる。そういう風に語形はどんどん変化してゆくが、元のinhereという言葉を分解するとinhereになって、inが内側で、hereがここにという意味だから、至って単純明快というか非常に分かり易いのである。因みにhereラテン語の語源では、“くっついている”という意味があるとのことである。要するに内側にくっついている状態がinherentなのだから、日本語的には本来のとか、生来のという意味になるのであろう。そこで私は考えたのであるが、hereの語源がくっついている状態であるということは曲者であるというか、ちょっと油断がならないような気がするのだ。
“ここに”という意味は当然のことながら、私を中心として見たここという、場所である。そのhereが私にくっつくように附属しているということは、元々英語とは私という自我を出発点として、今、ここにある場所の所有意識を中心として発展してきた言語ではなかろうかとも思えるのだ。たとえばhereの頭にwがつくとwhere(どこに)となり、tがつくとthere(あそこに)となる。全てはhereの語形変化である。あそこにある物も、手に入れてしまえば頭にある余計なtが取れて、hereとなるのだ。場所の隔たりは所有の意識によって縮められるということだ。このhereを考えていてたまたま、nowhereという言葉の不思議さにゆきついた。nowhereとは、言うまでもなくどこにも~ない、という意味だから、nowhereなのだが、nowhereと分けることも出来る。nowhereは“今、ここに”ということだから、“どこにも~ない”という意味とは明らかに矛盾している。この矛盾をどのように解釈すべきなのであろうか。日本的に考えれば仏教の無常観というか、形あるものの全てはいずれは無に帰してゆくということになるのであろうが、英語はそういう言語ではないように思える。私の勝手な想像ではあるが、むしろnowhereは、今あった物が突如として無くなったところの喪失感や落胆の意識から発生した言葉ではなかろうか。たとえばこのような情景が想像される。古代のイギリス人が猟で仕留めた獲物の肉を火で炙って久しぶりのご馳走にありつこうとしている。ところがちょっと目を離している隙に、ローマ人に横取りされてしまって、気がついてみると肉はどこにもない(nowhere)。今(now)、ここに(here)にあった肉が、どこにもない。“誰や、持って行ったんは。折角、楽しみにしていたのに”、という落胆、喪失感、憤りがnowhereという言葉の語感になっているのではなかろうか。ということであれば、欧米人の精神性はこのhereという言葉に代表されるように非常に即物的というか現実主義的な思考によって貫かれているようにも思えるのである。極論すれば欧米人の世界観はhere(こちら)かthere(あちら)の二者択一であり、hereとは私の所有であり、thereは収奪の対象になりかねないということだ。winwinの共存共栄などといつまでも浮かれたことを言っているのは日本だけなのではなかろうか。日本の政治はこのような基本をきちんと踏まえた上で、内政にも外交にも臨まなければ、消費税増税においてもTPPにおいてもその内に丸裸にされてしまう危険性が非常に高いのではないかと危惧されるものである。少なくとも国民の大半はそのような危惧の意識を有している。能天気なのは政治とマスコミだけである。ということで、私はこのような問題意識を持ちながら、少しずつ少しずつ英語を学んでいる。それにしても試験のない勉強ほど楽しいものはない。私は昔から試験だけは大嫌いであった。