龍のひげ’s blog

子供たちの未来のために日本を変革する

二つの存在

日曜日のことであるが仕事に疲れてきたので、飲みに行こうと最寄りの地下鉄の駅に向かってとぼとぼと歩いていると、自転車に乗った若者が私の横を通り過ぎた。その若者のTシャツの背中を何気なく見やると、3色ほどの色数でNEVER SAY DIEとプリントされていたのである。私はそのTシャツを見ながら、アメリカ人やイギリス人が見ればどのように思うのであろうかと考えたのであった。別に私も英語が得意という訳ではないから偉そうなことは言えないが、多くの日本人にとって英文字は「意味」ではなくて、「デザイン」に過ぎないのであろう。同様に英文のメッセージ性もTシャツにプリントされた時点で意味が剥ぎ取られた一つのデザインになってしまうのだと考えられる。
「死にそうなんて言うな」或いは「弱音を吐くな」というデザインなのだ。メッセージがデザインになるということはよく考えればユニークな表現スタイルである。異文化や異世界をその中身ではなくて視覚的に受け入れる交流の在り方であると言える。欧米人が漢字を刺青に入れることも同じであろう。文字だけでなくて記号というものは閉ざされた共同体なり文化の中で意味であるとか印象を共有しているから基本的には存在価値があるのであって、外部的な視点で見れば単なるデザインに過ぎないのである。それならばデザインとは一体何を伝え得るのであろうか。デザインは交流の手段とはならないのであろうか。そこで私が思い描いた図形は90年代に話題になった宇宙人が穀物畑に作成したとされたミステリーサークルである。私は難波のバーで様々なミステリーサークルのデザインを頭の中で思い描きながら酒を飲み続けた。それで思ったことは、たまたますれ違ったTシャツのNEVER SAY DIEのプリント文字からミステリーサークルのデザインに思考や発想が流れるということは、私はやはり普通の人間ではないのである。優れているということではない。全然優れてなどいないが、変わっていると言うか、むしろ地球人的には平均以下で劣っているとも言えるが、本質的には人間でないような気がする。昔からそう考えていた訳ではなくて5年ほど前からそういう奇妙な自覚が始まったものである。
ミステリーサークルについては90年代前半にイギリスの二人組の老人が自分たちがジョークで作ったものだと名乗り出たことによって、宇宙人やUFOによって作られたとする超常現象の議論が終息したものである。一応は人為的なものであったとして決着がつけられているがどうなのであろうか。普通に常識的に考えてもその説明は不自然であり、不可解である。先ず第一に小麦などの穀物畑を踏み倒して荒らす行為は、日本で言えば深夜にシャッターに落書きをしてちょっとしたアーティスト気取りになっている人間と同じで、器物損壊の犯罪行為である。いかにジョークが好きなイギリスであるにせよ、仮にそれが事実であるならば笑い話として許容されるようなことではなくて犯罪行為として訴追されるべきことである。しかしそのような話しは全く聞いたことがない。むしろ反対に高齢になった二人組の男性の「弟子」たちが今も世界各地でミステリーサークルの制作に勤しんでいるということである。そのような馬鹿げた話しが有り得るのであろうか。それからその二人組が実演して作成したものを見れば、あまりにも完成度が低すぎて美しさがまるで感じられない。イギリスや世界各地で作られた「本物」と見比べれば、同一のものによって作られたものでないことは一目瞭然である。それから暗視ゴーグルを使ってという説明ではあるが、老人があのような大きな図形を穀物を押し倒して一夜にして作り上げるという行為はあまりにも労力が重すぎるものである。一つや二つならともかくも全英各地に1年間に数十、数百のミステリーサークルを作っていくということは、少なくとも笑いながらジョークで楽しんでできるようなことではないはずだ。そもそも一体何のためにそのような酔狂なことをする必要性があるのか。私にとってはどうでもいいことだが、あの老人二人組はイギリスの政府関係者とつながっているのである。引退した政府関係者そのものであるか、或いは密かに依頼を受けてそういう役割を演じていたことは私から見れば疑う余地のないことである。
それで何が言いたいのかということであるが、話しの内容を元に戻せば、我々人間は言葉や記号の意味で世界を解釈し、他者との関係性を構築しているように考えているがそうではないのではないかということだ。「初めに言葉ありき」ではないということである。そうではなくて言葉や記号の意味性とは後付けのペインティングのようなものなのだ。具体的にわかりやすく説明すればこういうことになる。その日私は難波のバーでマルガリータを飲みながら、ミステリーサークルのデザインについて思いを巡らせていた。隣の席では、三人の男性と女性一人のグループ客が何やら楽しそうに語り合っていた。傍目に一般的に見れば、彼らは言葉で関係性を構築し、育んでいるように見える。しかし私にはそうでないことが見えている。人間は人間的な波長というか周波数で結び付き、憩っているのである。私は本質的には宇宙人だからそのような輪の中に入れないことはないが、入り難い。入ろうとすれば周波数を意識的に低下させる必要性がある。周波数を下げるとはどういうことかと言えば、より「人間らしい」思考を自ら選んで、周りと話しを合わせるということである。というよりも生活上のほとんどの場面ではそうしている。しかしそれは本当の私の姿でも精神的な居場所でもないので、私自身が疲れるし、面白くもないし、また私という存在が場に加わることで目には見えない微妙な緊張感や心理的な壁を相手にも与えてしまうこととなる。要するに双方が心の底からは寛げないということだ。周波数の違いは地上世界に軋轢を生ずる。その隔たりを言葉で取り繕うとしても何というべきか嘘になってしまうのである。だから私のようなスターチルドレンは孤独であり、一人でいることが多い。決定的に意識の周波数が異なれば心からの交流は不可能なのであろう。なぜなら言葉や記号も最終的にはその時代や世界の周波数に同調したものであって、そのつながりから外れた存在は異端的なエイリアンでしかないからだ。結論から言えば、なぜミステリーサークルが作られるのかと言えば、人間の周波数を引き上げて宇宙人に近づけることが目的である。関連して言えば、なぜ宇宙人は地球人の前にその存在を明らかにさせるように公然と現れないのかと言えば、存在の周波数に差が有り過ぎると同一次元の同一空間に共存できないからだと考えられる。現時点では宇宙人は各国の政府機関とのみ水面下で交流しているのであろう。しかし最終的には地球の文明や地球人そのものを作った宇宙人は人間だけが住む地球から、人間と宇宙人が共存して一緒に住む計画があるのだと想像される。そのためには時間を掛けて人間の周波数を宇宙人と共存し得るほどに上昇させていかなければならないのであろう。そうなれば地球からは貧困や戦争や不治の病気はなくなってしまうことであろう。しかしそうは言っても現在の政府と結びついている宇宙人の存在こそがこの地上世界に背後から戦争や貧困、災害を作っていると考えられるから、一直線に時間をかけて地球がユートピアに進歩できるかどうかはわからないが。人間や地球文明を作ったのは宇宙人である。だから人間にとって神とは宇宙人のことである。太古からの神と悪魔の闘争神話とは実は、複数の宇宙人の地球の支配権を巡る争いのことである。最終的に人間が闇の勢力に屈するか、光の世界を選び取るかは人間の意識の周波数がどこまで上昇し得るかということに掛かっているのであると考えられる。なぜなら宇宙においてはどのような卑小で微弱な力の存在であろうとその自由意思を奪い取ることは不可能であるからだ。日本の政治は特に悪魔的である。平和の理念や差別撤廃の正義などに目を曇らされてはならない。何の話しだったのか。私は今、仕事中である。