龍のひげ’s blog

子供たちの未来のために日本を変革する

思考のギア

それで私が結局、何をしようとしているのかというと、恐らくは日本の思考のギアをチェンジしてシフトアップさせようとしているのだと思われる。それがいわゆる「メタ思考」とか、苫米地英人氏流に言えば「思考の抽象度を上げる」ということとほぼ同じ意味になるのだと考えられる。しかし私は思考の「ギア」という言葉に拘りたい。なぜかと言えば、ギアとは説明するまでもなく日本語で言えば「歯車」のことである。メタ思考であるとか思考の抽象度を上げることは世界に対して自分という1個の存在が単独で行う技術であるが、ギアとは他者や世界に思考が作動して働く「噛み合わせ」を意味するものであり、シフトアップさせることはその効率を高めるということである。思考とは自分の内部で自己完結して終わるものではなくて、一つの歯車なのである。「思考のギア」とは誰のものでもない私の造語であるが、そこには私の孤独性が表れているように感じられる。孤独でない人間はそういう表現をしない。思考の技術を高めてそれを様々な知識と組み合わせ、既存のシステムや社会の中で実利を得ることを目的としている。私はそうではないのである。日本全体の思考をいかにシフトアップさせるかということを常に問題意識を抱きながら考えているものである。しかし自分一人だけが世間とは違うギアの思考で言葉やメッセージを発したところで噛み合わないのである。空回りするのだ。そしてそこに孤独が漂うことは必然である。それが私の魂である。そのような魂の在り様は、否応もなく現状に埋没できないのである。日本という国は一体、何なのかということを追及せざるを得ないのである。そしてまたそういう私は何者なのかということをも含めてである。どうして私は孤独なのか。もしかすれば人間ではないからなのか。私は宇宙人なのであろうか。或いはそうであるかも知れないが、そういうことを考えたところで益々、実社会の歯車から乖離していくだけである。私は元から夢想的なタイプの人間ではなくて、合理的かつ論理的な思考を重んじて生きている。だから人間であるか宇宙人であるかなどどうでもよいことであるが、日本語はうまく出来ているもので人間と言う言葉は人の間と書く。思考のギアが違って空回りしていると、人の間に存在していないから人間でないという理屈も成り立つということである。いずれにせよはっきりしていることはあって、それは日本の政治やマスコミなどのシステム全体が、日本の思考のギアをシフトアップさせないように妨害しているのである。それだけは間違いなく確かなことである。それは日本だけでなく世界全体に言えることかも知れないが、私は日本人として日本国内に暮らしているので日本のことしかわからないが、日本のギアの固定化はかなり強固だと思われる。なぜそこまでして問題の本質をすり替えようとするのか、なぜその問題や危機をなかったように平気で無視するのかということである。そこには何かしら悪魔的な気配すら私は感じ取ってしまうものである。一体誰が日本を背後から操作しているのであろうか。
たとえば今回の韓国のレーダー照射問題でも、野党の立憲民主党はこれだけ重大な問題であるのに党としてのはっきりした見解や主張を示してはいない。スルーしているのである。これがたとえば自民党議員の失言やスキャンダルであれば、喜び勇んで追及してくることであろう。自衛隊員の命が危険に晒されたり、一触即発の軍事衝突の危機よりも日本の政治にとっては一議員の失言やスキャンダルの方が政治的価値が大きいというか重大な問題として扱われるのである。それが日本の政治なのだ。そしてマスコミの報道姿勢でもある。そういうレベルの歯車に日本の思考や意識を固定化させてその上方の視点にシフトアップさせないように妨害されているものである。そういう政治や報道が日本では何十年間にも亘って繰り返されてきている。それが日本の姿なのだ。政治にどれだけ国民の税金が費やされているというのか。日本の政治は、政治を決定的に無意味化させるためにこそ膨大な金やエネルギーが投入されているものである。さらにその上に政治家は、政治資金を個人的な生活資金に流用させることを当たり前のように習慣化させている。それが日本の真実である。皆さん、先ずこのような現実に心から腹を立てることが、日本全体の思考をシフトアップさせる第一歩であることをわかっていただきたい。