龍のひげ’s blog

子供たちの未来のために日本を変革する

憂鬱の日々

梅雨だからという訳ではないが、どうも気が滅入って仕方ない。何かしら意味のあることを書こうという気になれない。何を言っても、世の中の全て(ではないにせよ、ほとんど)が茶番であるなら、虚しいだけだ。ここのところ、茶番、茶番と言い続け過ぎたせいなのだろうか、精神の自傷行為というべきなのか、自分の言葉に私の心はやられてしまったような気もする。本当にうんざりしてしまって一切のニュースや新聞を見る気にならない。ニュースや新聞を真面目に見れば、魂を吸い取られるように生きる気力が奪われそうな心持がするのだ。だから茶番情報を遮断(一瞥ぐらいはするが)して、アマゾンで買ったブルーレイやDVDを見たり、本を読んで無聊を慰めているのであるが、こういう時には意図的に選んだ訳でもないのに、不思議と精神状態と同じような内容の作品に遭遇したりする。まるで“今、あなたが見るべき作品はこれです。”と誰かに命じられているような錯覚に陥る。劇場で見逃してしまって気になっていたのを1週間ほど前にブルーレイで見たのが、ラース・フォン・トリアー監督の2009年カンヌ映画祭出品作品、『アンチクライスト』である。付属のメイキングを見ていて知ったのだが、デンマークの巨匠映画監督であるラース・フォン・トリアーうつ病や不安神経症などを患っていて、アンチクライストの撮影期間中も状態は芳しくなかったとのことであった。実力の40%ぐらいしか出さなかったと言っていた。映画の内容については述べないが、万人受けするようなものではない。むしろ危険な作品だ。カンヌでの取材で、ある記者が「どうしてこのような映画を作ったのか弁明してください。」と聞かれて、「私は観客のためにこの映画を作ったのではない。自分のために作ったのだ。だから何も弁明する必要はない。」と答えていたのが印象的であった。その後にまたアマゾンで『ドッグヴィル』(2003年度カンヌ映画祭出品)を買って見たのだが、これがまた衝撃的というか、恐ろしい映画であった。舞台劇の手法で小さな村における人間のエゴや本能を描いた映画なのだが、私はこのDVDを見てトリアー監督はどこか私に似ているのだな、と思ったのであった。人間社会の本質や欺瞞をあまりに直視し過ぎると、とかくこの世は生き辛いのである。私が何とか、うつ病などの神経症に掛からずに健全に生きていれるのも信仰のおかげだと思う。私は宗教団体の組織的な活動は嫌いなのだが、個人的には聖天さんを信仰していて、仕事が休みの日にはよく聖天さんが祀られている寺にお参りに行っている。今日(日曜日)も行ってきた。行く時には必ずお供え物の大根をスーパーで買って持参するので、大根の値動きには人一倍詳しい。白くて綺麗な大根を見ると、条件反射のように聖天さんに拝みに行きたくなる。大根を祭壇に供えて、観音経を1回、般若心経を3回、大聖歓喜天使咒法経を1回読経するのが私の拝み方だ。無茶なお願いさえしなければ、びっくりするほど願いは聞いてくださる。有難いことである。茶番を茶番だと指摘したぐらいでは社会変革にはつながらない。そんなことはわかっている。でも私は、性格的に言わずにはおれないのだ。今の私は気は滅入っていても、個人的な苦悩というものはほとんどない。社会をそして人類全体を苦しめば、不思議と個人の苦しみは雲散霧消するものである。本のほうは今、カフカの『城』を読み始めたところだ。『変身』は読んでいたが、『城』はまだ読んでいなかった。人間存在の不条理か、ああ、あまりに道は遠い。