龍のひげ’s blog

子供たちの未来のために日本を変革する

日韓関係の本質

今年の8月15日、終戦記念日の日に政治学者の姜 尚中氏が報道ステーションにゲスト出演していて、その数日前に韓国の李明博大統領が竹島に上陸した行為については理解できないと批判しつつも今後の日韓関係の有り方について発言されていたところの内容が在日の人の立場からであろうが、どうも私には腑に落ちないというか、しこりのような違和感となって未だに残っている。テレビで発言することにはそれなりの影響力があるのであろうし、ましてや姜氏は東京大学の教授も務めているのであるから、私としても日本のためにひっそりとではあるが自説を述べさせていただくことにする。先ず、その日が終戦記念日であることを受けて日本が変わらなければならないことの必要性を姜氏は何度も強調していたのであるが、日本が戦争中の国体と、さほど変わっていないとの認識は韓国にとっては賠償金などの補償を求め続けたり、慰安婦問題などで日本を批判する上では都合の良い見方であろうが、果たしてそれが現状に見合った見方であると言えるであろうか。“日本は変わらなければならない”などと言われても、日本はもう充分に変わっているとしか言いようがない。戦前、戦中の日本社会とは今は根本的に異なる世の中だ。もちろん官僚機構による統治のあり方は明治維新以降、100年以上にも亘って本質的には何も変わっていないが、姜氏の言うところの変わらなければならない=未だ変わっていない、はそういう意味ではないのだと思われる。終戦までの日本と現在の日本では戦後67年が経過したとは言え、その時間軸のスパンだけでは計れないほどの質的な変転がある。時間の経過だけから見れば、日本が軍国主義や政治の全体主義に逆戻りする可能性はあるという理屈は成り立つのかも知れないが、それはあまりにも歴史に対して平板というか単純すぎる捉え方である。終戦までの日本と現在の日本では何と言うべきか完全に位相が異なっている。国家というものが歴史の中で直進的に進歩してゆくと見るのはあまりにも楽観的すぎる見方ではあろうが、位相が異なっている過去の時代には逆戻りすることは不可逆であり、あり得ないことだ。たとえば江戸時代は265年間続いたが、その265年間は同じ位相の中にあった。しかし幕末から明治政府が成立するまでの10年間ほどは不可逆的に異なる位相の中に移行してゆくプロセスにあった。幕末の志士たちが命を捨てて新しい時代の扉を切り開いたという側面もあるが、より大きな視点で見れば歴史的な流れの中の必然であり、いずれそうならざるを得ない日本の運命であったと言える。そして江戸から明治への決定的に位相の異なる時代区分への移行と同じぐらいの変化を、日本は1945年以後の敗戦における米国主導の民主化プロセスにおいて経験していると言える。そして現在もその同じ位相の中で日本と言う国は意味づけられて存立している。この位相(パラダイム)がいつまで続くのか分からないが、私は段階的に自主的に脱却してゆくべきだと考えるが、姜氏の言う文脈において日本にこれ以上、変われというならば、それはメビウスの環のようにまるでタイムスリップするが如く、日本は戦前、戦中の全体主義に戻らなければならない地点に追い込まれることを意味するのではないのか。言葉の意味合いにもよるが日本は変わる必要はない。むしろ変わらなければならないのは日本ではなく、韓国の方である。未来志向などというフレーズを枕詞にはしているものの、未だに従軍慰安婦の問題を未解決だとして日本を批判し続け、その一方でアジア経済の安定という大義名分の下で、日韓通貨スワップ協定や韓国債購入要求など日本に財政的に依存する国家体質は何一つ変わっていない。日本がアメリカによる戦後体制から脱却できていないのと同様に、韓国は日本から真に自立し得ていないゆえに日本への戦争批判と経済依存が国家基盤となる地点から離れられていないのだと見れる。結局、日本も韓国も戦後の一つの位相のなかで政治的に絡め取られて右往左往している点では同じなのかも知れない。しかし民主主義の民度という点においては韓国は日本に比べて、というより比べものにならないほど劣っていることは確かだと思われる。盧 武鉉大統領の時代から日本統治時代に親日的であったと看做された人物の財産を没収したり、子孫を排除、抑圧する法律を作るなど、韓国の権力が未だに反日を土台としていることは明白である。先日も僅か13歳の男の子がインターネット上で親日(反民族)的な発言を掲載したとして逮捕されたことが報じられた。これは、どう考えても日本とは異質な国であるとしか言えない。民主主義国家というよりも、少なくとも日本から見れば北朝鮮と同列にしか論じられない国である。姜氏は竹島問題について解決することはあり得ないであろうが、日本と韓国がより一層、交流を活発化させることによって遠近法的につまり相対的に領土問題の比重を小さくしてゆくことが肝要であると報道ステーションで発言していたのだが、私はその考えにも異論がある。日本は実際にこれまでそう努力してきたのである。韓国政府の要請を受けた結果だと思われるが、韓流ブームなどはその最たるものであった。日本のマスコミもまた民間レベルで交流を緊密にさえすれば、本物の日韓友好の未来が築けるとの幻想に支配されていたのだと考えられる。ところが実際にはそうはならないのである。韓国という国の核心部分は現実的にはどうしようもなく反日であり、その核は意図的に作られた韓流ブームなどの民間交流とは水と油のように弾き合う性質しか有していない。国家間の経済取引自体は相補的な関係性にもあるから慎重且つビジネスライクに展開させることは必要であるとも言えようが、韓流ブームに象徴されるように、皮相的なまやかしによって友好や親善を印象付けるような傾向や安易な経済援助は、日本にとっては百害あって一利なしであり、韓国にとっても中・長期的に見れば単なる反日、日本依存国家としての位置づけに自国のレベルを押し止める政策であるとも言えよう。遠近法的に云々などとは日韓関係に付いて見れば、韓国が近視眼的に日本を利用する方便としか見れないものである。もし日本と韓国が本当に信頼関係を築くつもりであれば、それは戦後の体制からどのように両国が飛躍して、創造的に新しい関係性を取り結べるかという点においてしかないのだと考えられる。そのためには両国の政治に本物の知性と品性が要求されることになるのであろうが、韓国の民度はともかくとしても日本の政治そのものがどうしようもないほどに幼稚であるので見通しは絶望的に暗い。野田総理などいずれまた何を言い出すやら不安でしようがない。しかし、ともかくその方向性に日韓関係が自然と修正されていくまでは距離を置いて最低限の交流だけを絶やさないように続けてゆくことが、自然であり、健全であり、賢明であるとも私には思われるのだ。当然、時間はかかるであろうが、時間のかかる問題は時間をかけて解決する以外に道はないということであろう。