龍のひげ’s blog

子供たちの未来のために日本を変革する

日本の戦後思想

戦後の日本の歩みは、敗戦国道徳とも言い得るかも知れないが、政治と経済の関係について見れば、経済(特に国際経済)の方が政治よりも高等であると看做す考えが優勢であると言うべきか、国家とは単に経済活動を背後から支えるための機構に過ぎないとする風潮と共にあったのではなかろうか。そこにある基本的な思想は、国は放置しておけば勝手に戦争へと突き進んでゆく宿命にあるから、国の戦争行為を抑制する使命を文化交流とともに海外貿易や外国での現地生産、販売などの経済活動が背負っていると自負するところの考え方であると思われるのである。よって単純に分かり易く言えば、金儲けの方が政治よりも高尚であるとする全体的なおぼろげな秩序のようなものが、戦後の日本の姿であると考えられる。ここ数年の韓流ブームなどもその流れにあったと思われるのだが、マスコミは実態的には金儲けをしているだけであるのに、その裏側では、無能な政治に代わって平和外交を国民のために演じてやっているのだから公共の電波を使って大衆を洗脳する特権が自分たちにはあると考えているかの高慢な臭いが一つの時代の空気として確かに立ち込めていた。経済活動が政治を先導するかの国体は、あくまでも日本に特有の幻想であって、その感覚は世界には通じないものである。それは、日本の特殊性の表れである。経済が政治よりも上位に位置せられるような国は日本以外にあり得ない。今回の尖閣諸島国有化による中国国内のデモにおいても、上海のユニクロ店舗が、店頭のウインドウに“釣魚島は中国固有の領土であることを支持します。”との張り紙がされていた写真がインターネット上に投稿された。ユニクロが本気でそう考えて張り紙をしているのであれば処置なしというか、何をかいわんやであるが、群衆の略奪行為から店を守るために応急的に施した行為であっても、仮に本意でない政治的メッセージを発するのであれば、または現地スタッフのそのような行為を容認するぐらいであれば、無理をしてそのような危険な日に営業しなくとも店を閉めてシャッターを下していればよいのではないのかと思うのだが。どこまでも商魂たくましい姿は立派であると言えるのかも知れないが、私はここにおいても政治がまるで羽毛のように軽く、金儲けだけが国家のそして個々人の人生における最終目的であるかのような戦後日本の縮図を見るような思いがする。ユニクロの考えはよくわからないが、仮に世界市民的な平和思想の下で世界中に店舗展開を進めていったとしても、やはり私は土台としての国があっての経済活動だと思うのである。ユニクロの柳井会長は小泉元首相が靖国神社への参拝を続けていたことに関しても、2006年に「個人の趣味を外交に使うのはまずいんじゃないか。」「政治が経済の足を引っ張っている。」として批判していた。私はその発言は柳井氏の正直な本音であったと思う。国のトップが靖国神社に参拝しても中国や韓国の反発、暴動があるだけで商売の邪魔をされているようにしか思えないのであろう。また金にならないような靖国への参拝は一個人の趣味の問題だということになるのであろう。ましてや今回の尖閣諸島国有化などは20億円もの国の金を使っている訳だから、靖国参拝の問題同様に政治が経済の足を引っ張っていると看做し、対抗的に「釣魚島は中国固有の領土であることを支持する。」などという張り紙のコメントに象徴されるような精神構造に落ち着いてしまうのであろうか。まあ日本は中国のような一党独裁の社会ではなく、一応は言論の自由が保障されているので、個々人の立場で誰がどのような考え方をしようと自由である。しかし私は今、改めてそもそも国家とは何なのだろうか、との思いを強くもつ。確かに純粋に金儲けにおける効率性だけの観点から見れば、国の枠組みが存在することはアメリカや中国のような軍事大国はともかくとして、日本のように資源も乏しい小国ではマイナスになることの方が多いのかも知れない。一部の資本が大儲けして地域の雇用と生活がそれなりに維持されているのであれば、その資本家の論理で言えば国の歴史や伝統などは金儲けのプラスにならない限り無意味であり、個人の趣味の問題だという理屈も成り立つのであろう。これはTPPなどにも関連することであるが、大企業や一部の資本家だけが莫大な利潤を追求して、全体的な国益を守ることの意味というものが何かよくわからないような実体のない観念におちぶれてしまい、結局は自分さえよければよいのだ、金の力が全てだという世相の中で日本という国の存在意義そのものが国民にとっても国家権力においても日に日に薄らいでいるように感じられるのである。それでは極論を言えば日本は天皇制を廃して、アメリカ合衆国の51番目の州に加えてもらえれば道州制などの採用を目指さなくとも自然と現在の官僚統治の国家機構は解体されることになるであろうし、ひいては無駄もなくなり、また領土問題もアメリカの軍事力で紛争は少なくなるであろう。集団的自衛権などの憲法改正の問題もなくなるし、各企業は日本の脆弱な国体に妨害されることもなくより一層金儲けに邁進できることになる。通貨の円がドルに変わっても、もうこれ以上、アメリカの国債を買わされることも日韓通貨スワップ協定も必要なくなるであろう。このように考えれば日本という国が消滅して名実ともにアメリカの一部となることは万事が好都合ということにならざるを得ないのである。これは極論ではあるが、実際にそのように望んでいる人は決して少なくはないと思うのである。もちろん私はそうは望んではいないが、そのような極論を想定しなければ、日本と言う国の本質は見えないし、またそのような思考と向き合わなければならないような状態に今の日本はあると思えるのである。日本とは何なのか。我々は日本の一体、何を守るべきなのか、国民全体でよく考えなければならない時期に来ているのだと思う。三島由紀夫は自決に際して生命よりも尊いものはあると絶叫したが、たとえ死ななくとも、この世に生きている限りにおいても、私は少なくとも金より尊いものはあると思うのである。それが愛だなどとは言うつもりはない。私はクリスチャンではないし、仏教的に見れば愛は煩悩の一部であるし、ユニクロ会長の靖国発言ではないが、私は愛こそ個人の趣味、嗜好の問題だと考えている。金でもなく、愛でもなく、生き続ける上でこの上なく大切なもの、それが何なのかはよくわからないが、私はその何かを追求しながら生きているのだと思う。ともかく私はユニクロの服はどんなに安くとも、たとえ、ただでも着るつもりはない。物を売るということは、一面において思想を売っているのと同じである。そういう意味では服も、新聞や雑誌と変わらないのだと思われる。私はユニクロ的な思想だけは身につけたくはないと固く心を決めている。