龍のひげ’s blog

子供たちの未来のために日本を変革する

魂の見る風景

今日は息子の運動会の予定であったが、台風の影響で延期になった。そのおかげで朝、遅くまで寝ることができたし、昼以降も家にいてゆっくりと身体を休めることが出来た。時間があれば、ブログの記事を書こうという気にもなる。そういう意味では悪天候も時には恵みである。関東方面の水不足も解消されるであろう。小学校の運動会も、息子は6年生なので見納めなのであるが、生徒の「赤組頑張れ、白組頑張れ。赤も白も頑張れ。」などという、戦後の平等教育と資本主義の競争原理が微妙に入り混じったようなアナウンスの声にも聞き飽きてきたところなので、見れなくなって殊更、残念ということもない。さて前置きはともかくとして、今回、私が何事か論じる前に、少し哲学的ではあるが書くことの私的な前提条件というか、あるいは内面的な必然性なのか、いずれにせよ他者から見れば主観的な思い込みに区分されることではあろうが、言葉で表現することの目には見えない精神的な機序(メカニズム)と回路について簡単に触れさせていただくことにする。そういう領域から説明しないことには、私という人間は決して誰からも理解され得ないと思われるからである。ただし説明すれば理解されるかと言えば、それは別問題である。わかる人には、わかるということであろう。理解されないことは孤独である。孤独の本質とは誰にも理解されないことである。だからわかる人だけが、わかってくれれば孤独は十分に癒されることになる。しかし敢えて、このような回りくどい事を言わなくとも、既に私は私が理解されていることを知っている。よって私は本当は孤独ではないのである。蛇が脱皮するように、私は孤独を脱している。孤独とは神にまで至る、一本の薄暗い道であり、魂の傾向、状態であるともいえる。私は孤独を脱した地点から表現の心理的な前提を述べているのだ。私の表現衝動は、孤独の原点に立ち返った純粋な言葉と、そしてその言葉を生む思考が結びついたところの反応である。そして私の思考は、全的にはないが部分的に世界と有機的につながっているように感じられる。こういうことを言うと神秘主義者のように思われるかも知れないが、そういうことでもない。私は神秘を否定も肯定もするつもりはない。経験則的に照らして見れば、神秘もまた現実の一部である。私の精神は孤独と共に神秘をも脱しているのだと思われる。私の切なる願望は、物事それ自体を歪みや曇りを排除して、どこまでも清澄に見通すということである。ただしここにおいても根本的に一つの自己疑念があって、この世の物や事そのものが原初的にも最終的にも、いかに複雑であっても猥雑というか無意味さの具現であって、純粋かつ清澄に見通すことに果たしてどのような意義があるのかということだ。そのような見方にどこまでも固執していれば、ゴッホのように発狂してしまうかも知れない。さらに言えば、仏教的ではあるがその物が究極的に本当に実在するのかどうかにまで一旦、疑念を抱いてしまうと清澄、清潔に物の本質や世界を見ようとする態度そのものが迷妄というか、単なる政治性の表れに過ぎないことを深く悟って虚しくなってしまうということである。政治とは物事に対する一つか二つの見方を、公然とあるいは隠然として強要する社会装置であるとも言えよう。だから私が政治についてあれこれ述べる頻度が多いことは、突き詰めれば物の存在、事象の無垢の清潔性が一つの全体的な解釈を押し付けられることによって汚されることへの反発と、もう一つには人間も含めて存在の自明性にはどうしようもなく不可避的に歪んだ政治性を内包させていると見ることの認識論的な諦観、悲しさ、虚無感がないまぜになって土台となっているものである。よって私のような性質の人間は、政治のことなどには一切、言及せずに下手な詩でも創作し続けて、自己満足にでも浸っていればよいのであろうが、そういう種類のささやかな幸福感は今の日本の嘔吐を催させる社会状況が中々に許してくれないものである。ましてや思考と世界がリンクしてしまっているかのように思われる状態に進入すると常に何かが偶然性の形を伴って、そっと促すように私の精神に働きかけてきて、沈黙したままの状態に留め置かせてはくれないものである。だから非常に鬱陶しいというか、重苦しいような気分にもなるのだが、渋々とではあるがこうして何かしらコメントしなければならないような気持ちに追いやられてゆく。誰かに認めてもらおうとか、褒めてもらおうなどとは考えていない。奇異に思われる人もいるかも知れないが、それが私の実存的な問題であり、また煩わしいけれど、やらねばならぬ仕事みたいなものである。もう一方ではそういう超越的な感覚、使命意識を打ち消して、鬱陶しさ、重苦しさから解放されようとする自分もいる。こういうことは他者には中々理解され難いことであろう。私は別に自分を美化するつもりも卑下するつもりもないが、そういう心境の境涯の中で私論を展開させたり、怠けたりしていることは事実であるからこればかりはどうしようもない。そういうことで本論に移るが、また政治的な発言をさせていただくことにする。朝日新聞が9月28日の朝刊で、作家の村上春樹氏の寄稿文を掲載した。日本が韓国や中国との領土を巡る問題で文化交流に悪影響を及ぼすことを憂慮する内容である。村上氏は、“国境を越えて魂の行き来する道筋を塞いではならない”と朝日新聞の紙上で訴えている。村上氏の小説は韓国や中国でよく売れているようである。中国が今回の尖閣諸島国有化問題で一時的に書店から日本人の書物を引き上げたことについて残念には思うが、どうすることもできないし、意見を述べる立場にないと述べている。また“中国側の行動に対して、どうか報復的行動をとらないでいただきたい”、とも主張している。さて、私から見れば、村上氏の論説は非常に新聞的であるというのか欺瞞に満ちている。日本が中国において報復的な行動を取るような国でないことは村上氏もよく理解しているはずである。むしろ日本の問題は中国側の圧力や暴力行為に対して、毅然とした報復を取れないことにあると見れるものであって、村上氏の主張は中国のとった今回の措置に対して日本に国としても民間レベルでも批判するな、と言っているのと意味合い的にはほとんど同じであると思われる。なぜなら国家間の交渉において批判と報復は切り離せないものであることは国際社会の常識であるからだ。日本が尖閣諸島を国有化したことは、あくまでも日本の内政上のそれも登記だけの事務レベルでの問題であり、中国当局が中国国内における日本企業への暴動、略奪を容認する理由になど成りようがないものであることは歴然としている。私は中国に対して報復せよというつもりはないが、批判し続けることは絶対に必要であると固く信じている。そもそも村上氏はご自身の作品を中国や韓国の多くの人に買ってもらっている立場でありながら、どうして政治的な批判に関しては国境を越えて行なうべき立場にないと考えるのであろうか。村上氏の小説が中国や韓国で支持されているのであれば、国境を越えて、中国政府や韓国政府に対してこそ、「魂の行き来する道筋を塞いではならない。」と訴えるべきではないのか。仮に私が村上氏の立場であれば恐らくそうするであろうと思う。それが国境のない文化交流に対して一人の当事者として、責任を持つ姿勢ではないのか。そうする勇気がないのであれば、朝日新聞で日本国内向けだけにエッセイを寄稿しても何の意味もないと思うのだが。また、“領土問題が、「感情」に踏み込むと危険な状況が出現する”という指摘は、その通りであろうが、感情的になっているのは中国や韓国の方である。世界中を探してみても、政治意識、大衆意識という点で見れば日本人ほど冷静な国民はいない。村上氏は、中国に対してではなく、ニュアンス的には日本のナショナリズムを“安酒の酔い”との表現で批判しているが、今回の騒動で酔っている日本人など一人もいない。誰もが深く悲しみ、傷ついているだけである。安酒の酔いなどと言うなら、中国人大衆の暴動は麻薬にラリって集団で狂っているのと同じであり、この点においても村上氏の主張内容はあまりに作為的である。要するに私から見れば、村上氏は日本の自己防衛的な正当なナショナリズムを批判しながら、中国や韓国の過剰で危険なナショナリズムは擁護しているようにしか見えないのである。あるいは日本の出版業界の利益だけを代弁している発言のようにも感じられる。村上氏が述べているところの、文化の交換とは、話す言葉が違っても、基本的には感情や感動を共有しあえる人間同士であるという認識をもたらすことを重要な目的としていて、それが国境を越えて魂が行き来する道筋であるという内容に異論はないのであるが、そこに批判は含まれないのであろうか。文化交流とは、双方が儀礼的に批判を脇に避けてということであればまだしも理解できるが、相手側の批判だけを一方的に飲みこんだ状態で、果たしてそこに等価交換の魂の交流など成り立つのであろうか。そうではないであろう。批判もまた文化の一部なのである。いや批判精神こそが、相手の批判を受け入れる土壌が文化の成熟度なのである。それがわからない人種の掲げる文化交流とは所詮は、商人の思想でしかないゆえに、どこまでいっても、いつまでたっても心が通い合わないのである。人類という次元で人間存在を見れていないと国境と国籍は壁にしかならないということでもあると思う。