龍のひげ’s blog

子供たちの未来のために日本を変革する

子供の命を救え。

数えたくはないが、私の記憶に残っている事件だけでも、一体何人の子供たちが親の虐待で命を失っているのだろうか。日本は変な国である。DV法などという集団ヒステリーを煽るような法律を作っておいて、夫婦間でミッキー・ロークの猫パンチみたいな、じゃれているのか叩いているのかわからない程度の喧嘩でも、女性側からの通報があれば警察は嬉々として男性を拘束するというのに、同じ家庭内で、小さな子供たちが親の暴力によってこれだけ殺されている現実があるにも関わらず、抜本的な対策は何一つとして施されることなく、漫然と子供の命が見捨てられているに等しい社会状態が放置されたままである。日本では子供の命の価値は、情動的には大変に重いものであるが、社会システム的には存外、軽く扱われているように見える。この落差が一体、どこから来るのかと考えるに、私は勝手に“フランダースの犬症候群”と呼んでいるのだが、日本では小さな子供が薄幸の境遇の下、虐げられて死んでいくことに対して誰もが非常に不憫に思い、同情はするのだが、その一方で、ものの哀れというのか、自然の摂理としてまるで桜の花が散るのを見るような目でその子の運命として諦め、小さな命の理不尽な死を受容してしまう傾向があることが、一つの原因としてあるのではないかとも考えている。ご存知の通り、「フランダースの犬」は芸術の才能豊かな貧しい少年ネロが、愛犬パトラッシュと一緒にルーベンスの絵の前で死んでゆく物語であるが、本国のベルギーやヨーロッパではほとんど評価されておらず、一般に知られていない無名の作品であるとのことである。日本のアニメでは主人公ネロの年齢は8歳という設定になっているが、欧米の人が日本のアニメを見ると、我々の社会では8歳の子供にこのような惨い死なせ方はしない、といって感動するよりも憤慨するという記事をどこかで読んだような記憶がある。また原作ではネロの年齢は15歳であるが、15歳であれば単なる「負け犬」の話であって、さして感興をそそられる内容ではないとのことである。私から見れば、いくら何でも15歳で負け犬とは冷淡すぎる酷い見方だとも思うのだが、自立の年齢はともかくとして、小さな子供の命を情緒的な運命論で放下するような感性を否定して、毅然とした態度で社会が保護するとの断固とした意志は、日本が見習わなければならない部分が大きいのではないかと考えられる。日本も一応は社会全体で子供の命を虐待から守ろうとはしているのであるが、責任の所在が不明確であり、児童相談所などにおいても権限が有効に活用されているようにも見えず、結局は最終的に親子間の情愛の力を信用せざるを得ない地点に落ち着くサポートをしているだけのように思われる。だから同じような不幸な事件が何度でも繰り返されるのではなかろうか。確かに仮に、親と子が互いに手を取り合って、また家で一緒に暮らしたいと児童相談所に訴えれば、そのような情愛の光景を前にして、誰がその後に、母親が我が子をゴルフクラブで撲殺するなどと考えるであろうか。しかし実際に、そのような事件は何度でも発生しているのである。ここにおいての問題は児童相談所の所長の判断が間違っていたか、どうかということよりも、はっきりした決まり、ルールがないことではないかと私は思うのである。所長の判断などと言っても、神様でもないのに未来のことが予測できる訳がないのである。子供の命を虐待から守るためのルールがないことが問題なのであって、これは政治の怠慢としかいいようがない。具体的に言えば、児童相談所に子供が預けられるような事態になっているのであれば、その時点で虐待した親の親権は一時的に失効させるべきである。その上で、親が親権を回復するためには、アメリカなどで逮捕された麻薬中毒者が麻薬から離れるために特定の施設で自己管理カリキュラムを履修すれば、服役刑が免除されるとのシステムの紹介をNHKの特番で見たことがあるが、それに相当するような、児童虐待行動回避のためのトレーニング施設、プログラム、カリキュラムが日本においても早急に作られるべきである。そして、たとえば一年間などの一定期間の間にその施設でカリキュラムを受講、履修しなければ、虐待した親は親権者の地位を永久に喪失するものとするべきだ。親権を喪失するのではなく、親権者の地位を喪失するのだから、たとえ再婚して別の子供を作ったとしても親権者にはなれない。またその施設における受講費用も有料にしてもよいと思う。自分の虐待のせいで、子供を公共施設で無料で養ってもらっているのだから、自己矯正のための費用を自分が負担するのは当然のことである。これぐらいのきちんとしたシステムが日本にあれば、少なくとも児童虐待防止のかなりの抑止力にはなると思うし、虐待死を将来的に0にすることも決して不可能ではないと思う。反対に言えば、今の状況下においては、いかに親のモラル向上に訴えても、あるいは何もしなくとも子供の虐待死は絶対になくならないという現実が存続するだけのことである。これは児童虐待の問題だけでなく、いじめもそうだし、日本の経済や、外交、国防でも全て同じだと思うのだが、政治というものは本来、常にあらゆる種類のリスクに備えて、そのリスクを少しでも小さくするためのシステムが構築されるべきであるのに、その根本の土台のところで日本の政治は自主的な思考と、意思決定を放棄しているというのか、単に悪循環の流れに身を任せているようにしか見えないのである。口先だけは尤もらしいことを述べながら、実質的には海の中の昆布のように潮の流れに逆らわず、ふにゃふにゃとした政治不在の姿勢を保ち続けることが、権力という名の岩肌に安全に留まり続ける秘訣とでも考えているのではなかろうか。政治とは楽な商売である。ともかく政治のレトリックは一切、不要だ。子供の命を救え。ただそれだけのことである。