龍のひげ’s blog

子供たちの未来のために日本を変革する

ノーベル文学賞について

一人の日本人とすれば、ノーベル文学賞村上春樹氏に受賞してもらいたいという気持ちもあったが、どうであろうか、文学と言うものの曖昧性と曖昧を取捨する選考基準というものを考えてみた時に、一つの普遍性というのか、文学が人類共通の利益に資するという観点から考えてみると、どうしてもそこには政治的なメッセージ性が重要な要素とならざるを得ないのであろうが、果たして村上氏の作品が本質的に正しく政治的になりえるのか、と問いかければ、私はそもそも疑問であった。但し、村上氏の最近の発言には政治的足り得ようとする努力の痕跡は見られたのであるが、いやな言い方ではあるが、努力すれば報われるという性質のものでもないと思われる。私のように小さな時から、いかなる賞ともまったく無縁の人間が、このような論評をすることは非常におこがましいというか、畏れ多いことであるが、賞とは女心のようなものだと想像される。相手に気に入られようとしてあまりに健気に努力し過ぎると、得てして女の男に対する評価は、見ずともよい粗(アラ)まで見えてしまって反対に低くなってしまうものである。距離を保って自然体で振舞っている方が好感を持たれやすいものである。村上氏が2009年にエルサレム賞を受賞した際には、わざわざイスラエルまで赴いて、「高くて固い壁があり、それにぶつかって壊れる卵があるとしたら、私は常に卵側に立つ」との立派なスピーチをした。文学者、表現者として弱い方、脆い方の側に立つという政治的なスタンスは共感できるものではある。しかしそのスピーチの文脈に沿って言うならば、中国が日本に対して、あからさまに軍事力で威圧するかの政治的圧力や、中国国内における日本企業や工場への大衆デモによる暴力行為を政府が煽動する態度は、誰が考えても日本が“壊れる卵”であるのに対して中国は“高くて固い壁”であることは明らかである。そうであるにも関わらず、村上氏は9月28日の朝日新聞朝刊への寄稿において、ナチスの例まで引き合いに出し、日本の中国に対する正当な憂慮を“安酒の酔い”に似たナショナリズムであるとして批判した。村上氏ご当人は世界の政治的な潮流に従って発言しているつもりなのかも知れないが、ここには言い逃れが出来ない矛盾がある。結局はその時代の全体的な体制になびこうとしているだけであり、弱い側に立っているどころか、構造的には弱い者いじめと同質だと私には思われる。最終的には利他の精神ではなく、利己のための欺瞞的な思想である。これではノーベル賞の選考委員も中国共産党の検閲に監視されながら、貧しい農村の人々を生命力に満ちた描写で描いたという莫言氏を選びたくなるのも当然である。私は、村上氏が素晴らしい小説を書く世界的な作家であることは認めるが、ノーベル賞を意識し出してからは表現者としての堕落があるのではないかとも思う。『1Q84』などにも私は何かしら政治的なアプローチの如き匂いを感じ取ってしまって嫌気がさし、2の途中で放り出してしまったままその後、読もうという気になれない。朝日新聞は昨日の天声人語で、ノーベル文学賞発表を意識してのことだとも思うが、あわてて取り繕うかのように、中国に対して、“とりあえず「大人の所作」を覚えよう、と難じておく。”などとコメントしていたが、何が難じておく、だ。今更、遅いのである。しかし悲しいかな、これが日本文化の日常的な一風景でもある。政治がないがゆえに、全てが政治的であり、そして本当の心がどこにも見当たらないということだ。