龍のひげ’s blog

子供たちの未来のために日本を変革する

教育について 1/2

教育の力とは、中・長期的には国家発展の礎となる無形の資源、財産であることは確かであろうが、一体、何のための教育なのか、子供たちにとって見れば、何のために勉強するのかという目的意識をその時代に相応しい価値観、考え方で、社会全体で明確にして共有することが、先ず第一に何よりも大切だと思うのであるが、いかがであろうか。たとえば私は憲法9条改正論者ではあるが、しかし、だからと言って、明治・大正時代のように富国強兵のための教育が行なわれるべきだ、などと時代錯誤的なことを主張するつもりは毛頭ない。また戦後の高度成長期にあっては今では懐かしい響きの言葉ともなったが、日本人はワーカーホリックであるとか、エコノミック・アニマルなどと欧米人に随分、批判されたものであるが、ただひたすらに国のGDPを押し上げたり、会社の売上げやシェアを拡大する目的のために、自己を組織に埋没させて死に物狂いで働くような、そういう滅私奉公的な勤労意識と連動した無個性の人間を作る管理教育のあり方は、今の時代、そしてこれからの時代においては、効果的ではないし適切でもないと思われるものである。第一、そういう時代に特有の大量生産、大量販売的な世相に逆戻りすることも、現実的にはあり得ないであろうと思われる。よって時代の移り変わりの中で、子供や学生たちにとっての勉強することの意味合いも、当然、一義的には大人になれば就職して自立しなければならないということは大前提ではあろうが、ネームバリューのある大企業に勤めて、それなりの給料やボーナスを貰い、いずれは結婚をして幸せな家庭を築くなどという一昔前であれば平凡すぎて夢がないなどと馬鹿にされたような人生計画も、今ではその平凡さが夢物語のように厳しくなっている状況下にあっては、それなりに変化してゆかなければならないはずである。ところが日本では教育の意義というものが旧態依然として硬直化していると言うのか、国家にあっても個々人の人生においてもそこはかとなく閉塞的で可能性の拡がりを欠いているように感じられるものである。言い換えれば現在の日本は、教育が中々、直線的に国家主義的な国益に結実し難い時代であるとも言えるであろう。一方、韓国や中国のような国は、国家主義的に今や非常に教育熱心のようであるが、それはそれらの国が資本主義の発展段階的に一つの飽和というか、成熟に未だ達していないから、教育効果が端的に国の成長となって数字に表れるゆえに当然なのであろうが、日本が相対的に学力が低下しているからとか、国際競争力を取り戻さなければならない、などという理由で今一度、教育に力を入れなければならないとの理屈は、私にはピントがずれているように思われるものである。そのような考え方も文部科学省による一元行政の弊害だとも思えるのだが、少し前までは“ゆとり教育”などと言っていたかと思えば、急に子供の学力向上に方針転換したかのように感じられるものであるが、私から見れば、分断された教育行政というのか、教育が有機的に日本という国の現状の全体性に適合しているようには見えないのである。国が教育を重視して生徒の学業成績向上に転じたのはよいが、日本の教育システムとは所詮は、優秀な官僚を作り出すためのものでしかないように考えられるものである。優秀な官僚を作って、その少数のエリートが日本の政治や経済を誘導していくという図式は、今の時代に通用しないことはわかっているはずであるのに、結局、一元的な教育システムを統制している大本が文部科学省という官僚組織であるゆえに、教育が軍隊の規律のように画一化され、時代遅れの官僚主義の閉塞から離れられないのだと考えられるものである。消費税と財務省の関係にも言えることであるが、日本の全体像を俯瞰し得る立場にない一部の官僚が、天下を睥睨するかのように、省の権益を日本の国益に摩り替えてしまうことの弊害が日本の前途を阻んでしまっているとも言えるであろう。政治不在と言うか、正確には一応、政治の形式は存在するのであるが、形式だけで完全に形骸化してしまっていることの問題の大きさを日本は末端の国民レベルにおいても、よく考えなければならない時期ではなかろうか。統治システムとは本質的には、時代にそぐわなくなっても統治機構の側からは、内部変革出来ないようになっているものである。国民全体の認識能力、洞察力を底上げして、旧来のシステムを国民批判の矢面に立たせ続けることが日本改革への第一歩であると言えるであろう。教育について言えば、現在の日本における教育の目的、あり方は、生産性向上や国際競争力の強化などの経済指標に直結するような性質のものであるべきではなく、体力も含めて総合的な人間力を育むべきものであると私は考えるものである。子供や生徒たちの視点で言えば、将来のお金儲けのために勉強するのではなく、口幅ったい言い方ではあるが、豊かな感性を持った立派な人間になることが勉強することの最終目的であってよいと思うのである。経済効率やGDPなどを度外視しても、その国にどれだけの割合で民度の高い道徳的な国民が存在するかということが、国家としての品格と人間的な国力を示していると見ることも出来るであろう。経済などは、日本のバブル期を振り返って見ても分かる通り、ほんの一時的なものに過ぎない。人間力のみが株価のように上下変動することなく永続するところの確かな国力の指標であるともいえよう。こういうことを言うと、必ず返ってくる反論があって、それは、抽象的なことを言うなと、一口に人間力などと言っても、何がその子供にとって重要な人間力の要素となるかは人それぞれであると、勉強が出来る子もいれば、運動が得意な子もいる、勉強も運動も苦手でも、絵や音楽などの芸術分野に才能がある子もいる、よって一律にこれが人間力だなどと子供たちに押し付けるような教育方法は子供たちの健全な成長を損なう可能性があるから危険であると、少なくとも義務教育の間は基礎学力を偏りのないように通り一遍の方法で教えることが公的教育のあり方だ、という意見である。あるいは、個々の人間力を育むような教育は家庭でなされるべきだ、との意見も多いであろう。確かにそうだとは思う。しかし現実的には今の日本の家庭は様々な理由で、子供たちの人間力を育む場としては機能していない。むしろ児童虐待死の増加などを見てもわかる通り、必ずしも子供たちにとって安全地帯とも言えないような状況にすら陥っている。虐待にまで至らなくとも、精神的にも経済的にも余裕のない親は多いし、そもそも親に基本的な人間力が備わっていなければ子供の人間力を養えるわけがない。公的教育と人間力の関係について見ても、最終的にゆきつく問題は、文部科学省による一元的かつ画一的な教育方法しか存在しなくて、そこに教育の選択の余地がないということと、これまで公的教育そのものが競争原理に晒されてこなかったということではないかと思われるのである。とてつもなく大きな振り子の振幅のように10年間、ゆとり教育をやってみたけど駄目だったから、何だか方向性もよくわからないけれど、今度はとにかく脱ゆとりで、国全体で教育熱を高めて行こうというような、そういう悠長なスパンで、漫然とした右往左往をしていたのではとてもではないが教育は時代の変化についてゆけないのではないのか。私は、人間力を育むための教育と言ったが、そのアプローチは文部科学省決定による一元管理的なものではなくて、複数の方法が同時進行的に切磋琢磨され、取捨選択されゆくシステムが採用されるべきだと考えるものである。人間力とは言っても個々人の自己実現に留まるものではなくて、最終的には集団の力として国の発展に寄与するか、あるいはそこまでいかなくとも現在の凋落傾向に歯止めをかける力を持ち得なければならない。しかしどのような方法が効果的であるかは実際に試してみないことにはわからない、ということだ。結論を言えば、私は地方分権が新たな教育方法の壮大な実験場となるべきだと主張したいのである。たとえば具体的には、シュタイナー教育のような霊性開発(と言っても詳しくは知らないが)に力を入れる都道府県があってもいいと思うのである。実際に5年間ぐらいやってみれば、もしかすればその地域からいじめや自殺が大きく減少するかも知れないし、あるいは何の変化もないのかも知れないが、試して見る価値はあると思うのである。武道による肉体と精神の鍛錬を教育の根本に据える地方があっても面白いと思うし、語学教育に小学生の低学年から特化させた教育や、自然との触れ合いを重視させた教育方法とか、ディベートを教科に取り入れたり、または単に従来のゆとり教育を復活させる府県があってもいいと思う。その地域特有の教育方法が奏功して、優秀な人間がたくさん輩出されることになれば、中・長期的にはその地域が活性化することにもつながってゆくであろうし、そうなれば自然と人や企業や金が集まってくることにもなるであろう。地方分権下における画期的な教育改革による町興しは、決して不可能ではないと思うのである。人間力を高めることが教育の基本であり、そのためのアプローチは地域に近接した地方政治がそれぞれに効果的だと思える教育方法を具体的に考案、選別してゆくべきだと私は考えるものである。これまでの中央統制された遠隔操作による、競争原理の働かない、画一的な教育システムの下では、子供たちにも本当の人間力は身に付かないであろうし、教師や教育委員会などにも事なかれ主義の悪弊が蔓延るだけのことである。いじめや子供の自殺なども元をただせば、このような固定化したシステムの弊害から生み出されていることが理解できない人は社会を洞察する意識が低いのだと私は思う。近年、経済的な負担が大きいにも関わらず、私立の小学校や中学校に子供を行かせようとする親が増えているらしいことも、公的教育の社会構造的な限界が露呈している現れであると見ることも出来るのではなかろうか。国の役人(官僚)の言い分や思考回路は想像がつく。各地方がそれぞれ、勝手な教育をやっていたのでは国全体での統率が利かなくなってバラバラになってしまい、生徒にとっても混乱や教育の機会均等の不平等が生じるというものだ。