龍のひげ’s blog

子供たちの未来のために日本を変革する

教育について 2/2

しかし果たしてそうであろうか。住民投票などによって民主的に採択された地方独自の教育スタイルであれば不平等とは言えないであろうし、公的教育の質を地方間の競争によって引き上げてゆくためにはそこに違いがなければ効果の検証も出来ないものである。また、今やインターネットで瞬時にして日本国中が一つの情報にアクセスして結びつく時代に、都道府県によって教育方法が異なるからと言って日本がバラバラになったり混乱したりすることもあり得ないと考えられるものである。むしろ日本はメディアのコントロールによって世論が金太郎飴の顔のように必要以上に同質化してしまう嫌いがあるので、意図的にバラバラにするぐらいの方がちょうど良いのではなかろうか。そうでなければ文化的なダイナミズムも死に絶えてしまうであろうし、それは結局、人間力の脆弱さであるとか政治不在を容認する日本特有の風土として帰結せざるを得ない地点の問題に環を描くように立ち返ってしまうことになる。戦後の日本の秩序と安定は、日本人の精神を去勢することを土台として築き上げられているのである。しかし、日本人は自信を失う必要はないと思う。日本人は元々優秀な民族なのである。明治維新以後、60年位の短期間で欧米の知識と技術を吸収し、それまで迷信と迷妄の中だけで生きてきたような国が世界の列強国に比せられる程の急速な近代化と工業化を成し遂げた。戦争には負けたが、太平洋戦争の開戦当初には世界一優秀な戦闘機であった零戦を作り、世界最強とも謳われた戦艦大和をも建造した。当時の日本人は海外の援助によってではなく自国の力のみで、そのような高度な戦闘機や建造物を発明し、作り上げる能力を身に付けたのだ。未だに日本の技術供与や資金提供の世話になりながら、感謝するどころか日本の批判ばかりをしている韓国のような恩知らずの国や、オリジナルな物は何一つとして自力で考えることも出来ずに、世界中の模造品ばかり作っている分際で、国土の広さと人口の多さだけの大国意識を振りかざし、威張り散らしているような中国のような国と比べれば、現在の日本は確かに国全体の勢いで見れば、押され気味というか潰されそうになっているが、一人一人の国民の質で見れば潜在的にも顕在的にも、確かな優秀性と優位性を保ち得ているのだと思う。今の日本は政治の程度があまりにも酷すぎるので、このような惨めな状態にあるのだが、日本の政治レベルの低さもパフォーマンスとしての国際貢献みたいなもので、最後に物を言うのは国民の質、つまりは総合的な人間力だと考えられるものである。それでは日本人の優秀性の源はどこにあるのかということであるが、それは明治維新後の躍進に見られるものであると思えるのであるが、日本という国はそれまで鎖国の閉ざされた環境の中で、現代から見れば、迷信と迷妄の中だけで生きてきたようにも見えるが、それでも野放図な野蛮さを特質とするような生き方とは対極的に、武士道という凛とした規範があって、厳しい自己節制の中で信義と礼節を重んじて人生を全うしようとする思想が武士という支配層に貫かれてきた。何か事があれば、切腹して責任を取るという潔さがあった。もちろん、それらの規範意識が、今の時代にそのまま通用するものではないが、日本は武士が出現した鎌倉時代以降、明治維新までの700年間にも亘って武士道と仏教的な宗教意識との習合の中で人間力を育むような生き方が連綿と受け継がれてきたのである。700年間にも及ぶ生き方の重み、厚みというものはどうしようもなく結実せざるを得ないものである。明治維新後の、日本の奇跡的な近代化はそのような歴史による底力から生み出されたとものと見ることができるであろう。しかし日本は敗戦を一つの契機として、そのような歴史的な古人の思想、生き方による収穫から切り離されてしまったのである。私は自分が必ずしも右翼に位置する陣営の人間だとは考えていないが、戦後の左翼的な集団の思考とはそういう歴史断絶の認識の中で、日本のナショナリズム批判を偏狭に行なっているのだと考えている。まあ右翼であろうが左翼であろうが、その時代のご都合主義的な思想は決してなくならないのであろうが、私は日本の教育を考えた時に、総合的な人間力という指標は決して無視できない重要なファクターであると思えるし、個々の人間力とはその国の歴史と分離して考えることは出来ないものであると考える。言い換えれば、日本の伝統や歴史、そして真実を軽んじた思考の下では、本当の人間力は決して育まれないであろうということだ。敗戦国の日本こそ歴史と伝統、そして誘導された歴史の外にある真実の重みというものを追究し、かみ締める必要がある。全体を軽んずれば個は重くなる、個を軽んずれば、全体は重くなる、右翼と左翼の思想対立は時空を超えて、そういう相対的なものであろうが、本来、人間の命の重さは、有史以来、思想とは独立して不変のはずなのである。右であろうと左であろうと、相対性の思考の元では絶対的な価値は風に吹かれた蝋燭の炎のように揺らぎ続ける。人間の命も一本の蝋燭の火のようなものである。いつ吹き消されるか分からない。我々は火の熱さの意味と本質を追及しなければならないということだ。