龍のひげ’s blog

子供たちの未来のために日本を変革する

人類の明日

明日はきっといい日になる♪ か。
悲しいことだが、歳を取ると明日は今日よりもいい日になるなどと、希望を持って生きることが難しくなる。今日が昨日と変わりがないように、明日も今日の延長で何一つ変化はないのである。いいも悪いもない。悲観も楽観もなく、ただ平板な日常を淡々と生きているだけである。それが人生なのだと思う。特に今の時代のように、世界の至る所でテロや紛争や犯罪などで、突如として多くの人命が失われる無慈悲で不条理な現実にあっては、世界は多元的に各々の地域や国が隔離されているのではなく、一元的、有機的に結びついているのであるから、その連動した気分やリスクから導き出される答えは、主体的、積極的に生きているというよりは、ただ何となく漠然と無意味に生き長らえているという虚しさにしか、私の場合は行き着かない。人によっては、この生の無意味や虚しさを紛らわせるために、ドラッグに耽溺したり、過激思想や宗教活動に身を投じて殉ずることになるのであろう。私の場合は、ドラッグはもちろんのこと、最近では酒も止めてしまってまったく飲まなくなってしまったし、ギャンブルもしないし(FXはやっているが)、これといった趣味もなければ、特定の宗教や政治活動とも無縁であるし、人生に何の楽しみがあるのかと聞かれれば答えに窮するほどに、本当にただ漠然と生き長らえているだけである。しかしそれが、私の生の実相であるのであれば、その中核は何をしても、どのような解釈を試みても変わり得ないものであろうことはもうわかってしまっている。ドラッグで頭の中を一時的にいじくっても、生の無意味さは何一つとして変わらないであろうし、タトゥーを身体に彫り入れてもそれで人間そのものが強くなる訳でもなかろうし、宗教も一概には言えないが、大体においては組織の論理で信者を洗脳したり、利用しているだけであってそれで感じる所の幸福感は錯覚だと思う。人間は無意味に生まれてきて、無意味に死んでいくのだと思う。夏の蝉と同じだ。しかし人間の生活には、言語があるし、歴史や文化に支えられているので、その時代や地域社会の要請に応じて、生きることの意味や死ぬことの意味が自然発生的に作り上げられ、全体で共有してこられたのであろう。日本のように経済や文化が一定の成熟に達して、これ以上大きく変化しようのない段階に至れば、個人の価値観や生命がこの上なく大切で貴重なものとして取り扱われるが、最初から所与のものとしてそういう権利が与えられている訳ではない。文明の発展段階の遅れた国や地域や、そういう文化圏に住んでいる人々がこのグローバル経済、情報化の中で先進国と同じような生活レベルや豊かさを追求しようとすれば、どうしても現在の西側資本主義体制の搾取構造や陰謀と全体主義的に戦わざるを得ないことになる。欧米の空爆に対抗するためには、戦闘機やミサイル兵器のない集団は、人道をまったく無視した残虐さをインターネットを利用して多くの人間に見せ示すことが唯一の戦略となる。イスラム国も元々は、イラク戦争によるフセイン政権崩壊の混乱の中から発生してきたのであって、戦争の副産物であるとも言える。非民主的な政治体制であっても、イラクフセイン政権は一定の秩序が保たれていたのであって、その秩序を破壊することの代償はあまりにも高くついたと言わねばならない。また、そもそもブッシュ元大統領がイラク戦争に突き進んだ大義の正当性や9.11テロの信憑性も非常に疑わしいものであり、そういうことがまったく見直しも総括もなされないで、テロ集団との戦いを続けたところで(続けざるを得ないものであるが)、人類史として俯瞰的に見ればそこには何の進歩もないと言えるのではなかろうか。この世界に起こることは全て原因があって結果があるのだと思う。イスラム国の兵士たちも地中から湧いて生まれてきたものではなく、アメリカの戦争思想や価値観が、裏側から作り上げてきたものとも見れる。それとアメリカだけではなく、日本も含めて西側先進諸国とそれ以外の国との経済的な格差構造が長年、放置され続けてきたがゆえに、明日に何の希望も持てなくて、世界の支配構造に深い恨みを持ち、そういう豊かな国の人間を自爆攻撃で報復することを厭わない人間が、世界には何万人と存在するであろう恐ろしい現実と真正面から向き合わなければならない。そういう人間たちがイスラム国の教義に感化されて、次から次へと自爆テロを引き起こしてゆくのであれば、もちろんテロ行為そのものを肯定することは絶対に許されないことではあるが、何が善で何が悪かという単純思考ではなく、陰謀論も含めて、世界の支配構造や矛盾に全ての人間が疑問と批判の厳しい目を持って見るべき時なのではなかろうか。そうでなければ今のこのテロの報復と世界の混乱は、いつまで経っても収拾がつかないのではないかと思えてならない。“明日はきっといい日になる”の希望は、日本だけでなく先進国だけでもなく、世界全体で共有されなければならないもののはずである。