龍のひげ’s blog

子供たちの未来のために日本を変革する

やばいの用法と政治性について

語彙・読解力検定3級のテキストを読んでいて、気になった箇所があったのであるが、別にケチを付けるつもりはないが、「辞書語彙」のテーマ1冒頭で、複雑な感情表現を現す語句として、「やばい」が解説されている。その解説によれば、「やばい」は、様々な感情表現を表す語句として、「すてきだ」、「すばらしい」「おいしい」などの肯定的用法がイラストとともに紹介されている。その上で、何でも「やばい」の一言ですませてしまうのは残念である、とも付け加えられている。この「やばい」の現代的用法について、以前から私は思うところがあったのでこの場で述べさせていただくことにする。確かに、少し前にTVでも現在の俗語の紹介の中で、やばいが本来の否定から肯定に用法が変化している言葉として取り上げられていた。語彙・読解力検定のテキストにおいては完全に肯定の語句として説明されている訳ではないが、様々な感情表現を表すとして、肯定も否定も含んでいるようなニュアンスとなっている。それでは実際のところ、「やばい」は否定の言葉なのか、それとも否定でも肯定でもどちらの使い方でも間違ってはいないのかということであるが、言葉の意味合いは時代とともに移り変わっていくものであるから、どちらが正しいとも言えないと言ってしまえばそれまでであるが、それは私に言わせれば単なる思考放棄であって、言葉の自律的な変化ではなく、主に言葉を司る社会的な場であるマスコミや教育機関などが、いい加減になってきているように感じられるものである。なぜそのように感じるかと言えば、車を運転中にFMラジオを聴いていても、高校生の投書で「期末試験が目前に迫っているのに、全然勉強が進んでいなくてやばいです。」とごく普通に本来の否定的用法が頻繁に使われているからである。言うまでもなく、「やばい」とは、不都合或いは不利な状況に追い込まれていて心理的に余裕がなくなった時に使われる言葉であって、そういう正しい用法を今の高校生や大学生などは当たり前のように弁えていて、基本的にはそういう風な否定の用法で日常的に使っているものである。それではどういう時に、どのような心理的な理由で、「やばい」が「すてきだ」とか「すばらしい」などの肯定的用法で使われるのかと言えば、友達同士など気楽で打ち解けた場面において(元々「やばい」は俗語なので、その状況は否定、肯定両方の用法に共通するものであるが)、意図的に否定の言葉を使って肯定の感情を強調する「反語」的な使い方をしていると見れるものである。よって結論的には、何が言いたいかと言えば、「やばい」はあくまでも現代においても否定を表す言葉であって、肯定の用法は元々が俗語である故に厳密に間違っているということも出来ないが、そういう用法はあくまでも変則的で、ファッショナブルな変化として見做すべきである。よって語彙の検定であるとか学校教科書などの権威的な説明においては、「やばい」は本来は否定的な用法で用いることが正しい語句であるが、現在社会においては若者を中心に反語的に「すてきだ」や「すばらしい」などの肯定用法で用いられる場面が多くなってきていると記載すべきなのである。それをマスコミは(特に朝日新聞はその傾向が強いように感じられるが)、若者や大衆感覚にすり寄るというか阿るように、言葉の本来の意味合いとその用法変化の動向との関連性をきちんと正しく説明しようとしない、或いは出来ないという事態は、私は深層においてはマスコミの大衆に対する政治誘導であるとか、言論と政治の不分離と深く結びついているように考えられるものである。なぜなら大衆が日常的に使う否定と肯定の言語感覚が不明瞭になりさえすれば、世の中の真実はいかようにもごまかせるし、いかようにもコントロールし得るからである。我々大衆が意識すべきことは、先ず何よりも反語であれ何であれ、否定と肯定をはっきりと区別することである。小さな洗脳は至る所に、隠れ潜んでいる。