龍のひげ’s blog

子供たちの未来のために日本を変革する

エビデンスと陰謀論の用法

それで非常に気が重いのであるが、コロナのワクチンについて、核心的な疑問について言及しないわけにはいかないようだ。もう既に接種している人もいるので、本当はその内容について触れたくはないし、憚られるのでもあるが、接種率を高めるためにワクチンパスポートの必要性について主張する人が多くなってきているように見受けられるのでやむを得ない。厚労省が因果関係は不明だと言っても、ワクチン接種直後に数百人レベルの人間が亡くなっている現状があるにも関わらず、陰性証明書ではなくてワクチンパスポートの必要性を強調している時点で隠然たる闇の勢力の動きが感じられるものである。それから統計データのいい加減さについても言わざるを得ないが、国は補償をしたくないのでワクチン接種と死亡の因果関係を不明だとして認めていないものであるが、それを言うのであればコロナの陽性者数と重症者数や死者数の因果関係の方がより不明ではないのか。常識的に考えれば、コロナが陰性で重傷でもない人間がワクチン接種直後に亡くなることの方が、無症状者や軽症者が多いことが特徴のコロナ陽性者の人々が重症になったり死亡するケースに、より他の基礎疾患や様々な要因が関連していると考えるのが自然ではないのか。政府や厚労省の用いるデータというものは、そもそもご都合主義で信用できないのである。

これから述べることに疑問に対して、返ってくる政治やマスコミの反応はある程度は予想できるので先に2点ほど説明しておくことにする。まずは「エビデンス」という言葉の用法である。これは以前から感じていたことであるが、一つ覚えのようにエビデンスエビデンスと耳障りなほどに多用されて鬱陶しいというか、正しい用法がわかっていないのではないかという気がする。まず学術的な問題として定説とするのにしっかりしたエビデンスが必要というのは当然であり基本的なことであろう。しかし今のコロナのように現在進行中で、よくわからないことが多い問題については定説が確立されるに至っていないので、エビデンスとは何らかのリスクを負わせて、行為の決定をさせる側が出来る限り誠実に示す義務が課せられるものであって、その反対ではないということである。要するにワクチンを国民に接種させようとする政府や厚労省が国民に対して一方的にエビデンスを出し、説明し続けるのが筋道であって、何でそれに対して疑問や不信を持つ我々国民が本能的な不安についてエビデンスや根拠を示す必要性があるのかということである。情報弱者の国民に対して、情報強者の政府やマスコミが否定のエビデンスがないからという理由で不信や不安を持たせないようにするばかりか、不安を煽っているなどと批判することが土台、間違っているのであって、それは転倒した権利の悪用に過ぎない。仮に私があなたに万病に効く何かの画期的な治療法を見つけたとして、その利用を推奨するのであれば、エビデンスを示さなければならないのは私であって、あなたでなないということである。あなたがその治療法に対して疑問や不安の声を具体的に発した時に、私が他の人々はそういう風には考えずに利用して実際に効果が得られているのであるから、それを否定する風説の流布をするのであれば、それを明確に証明するエビデンスを示せと、それが出来ないのであれば、そういうことは一切口にするなと言われれば、その「エビデンス」の用法は間違っていると考えるのではないのか。それと同じである。もちろん私には何の権威性も資格もないのだから疑問を持たれて当然であるということはできるが、それは本質的な問題ではないし、それを言うのであればそれまでのことである。ならば国やマスコミの言うことには権威があるのだから、否定は一切、許さないと言っているのと同義である。結局はそこに行き着く問題なのである。

それからこれも重要なことであるが、言葉の定義にもよるが、私は「陰謀論者」であるかも知れないが、「陰謀論信奉者」ではない。政府やマスコミが、躍起になって言論から排除しようとしているのは、陰謀論を容易に信じる信奉者の声の大きさや拡大であって、陰謀論そのものに正面から対峙している訳ではない。本当は無視したいので無視したり、揶揄する程度であるのが、それで収まりがつかなくなってくると、批判したり強引に抑え込もうとする動きになってくる。そういうことを今の政治や河野大臣、マスコミなどが大衆に対して行っている。それでは「陰謀」とは字義的にどういう意味合いなのか、そしてどういう風に社会的に用いられているのかを考えてみることにする。広辞苑的には「密かに企むはかりごと」ということであって、陰謀という言葉そのものには真実ではない、とかデマや価値のない風説という意味合いはもともとないということは認識しておく必要がある。そういうことは日本人にとっては初歩的な国語力の問題であって、それを説明しなければならないということが恥ずかしいというか憂慮すべきことである。では政治やマスコミは、「陰謀論」という言葉をどういう用法で使っているのかと言えば、政治や行政、マスコミに共有されている統一された見解や物の見方、解釈に真っ向から対立する論説を取るに足りない価値の低いものであったり、或いは有害な風説として抑制の対象としているということであって、それ以上の意味は何もないのである。それならば政治やマスコミに共有された物の見方や見解は常に正しくて、国民の利益や健康、安全に資するものかということである。そういう問題提起がなされざるを得ないことは誰にも否定できないであろう。皆さんはどう思われるであろうか。私に言わせれば、日々、TVや新聞で流されている政治やマスコミに共有された見解というものは物事の一面の真理であって、それで世界の趨勢や現象が説明し切れるものであるならば、世界各国のたとえばCIAとかSVRやMI6などの諜報機関は必要ないのである。それが資源問題や領土問題、紛争における地域の安全保障や戦争の危機、或いは外交官がハニートラップに引っかかって国家機密を漏洩し、自殺に追い込まれたというようなことは、我々の国民生活には直接的な影響はないので放っておけばよいということになるかも知れない。しかしコロナのような疫病やワクチンへの見方は国民の生命や健康に直結することなので、ある意味では戦争開戦の決断と同様の重大問題であって、陰謀論的だからという理由で、否定されたり批判される謂れは何もないということである。それは政治やマスコミの傲慢さや民主主義の軽視が映し出している現象に過ぎない。私がこれから述べることは、何かの陰謀論の本を読んで感化を受けて、引用したり、焼き直したものではない。身の回りの新聞、TV、本、ネット情報などを含め、日頃から自分自身で感じたり、疑問を抱いたものを総合して、理性的に追求し続けた蓄積の結果、たどり着いた一つの見解であったり、疑惑であるということである。陰謀論的な本を読むこともあるが、それはそこに答えを見出したり、理論武装の知識を吸収しようとするためではなくて、単に自分が導き出した答えや推測と比較対照するためである。その結果、類似点が多くて驚くことも多いが、基本的には私の言っていることは、私のオリジナルのものなのである。そしてそれが、政治やマスコミが共有していて、国民全体を抱え込もうとしている価値体系や観念、考え方との距離感があることが多いので、そういう意味合いの定義では、私は陰謀論者であって、陰謀論信奉者ではないということになる。しかし何も私は天邪鬼に無理をしてそうなっているのではない。私にとってみれば政府の見解であろうが、マスコミの報道であろうが、厚労省のホームページに書いてあることであっても、或いは陰謀論者が数々の著作で主張している内容であっても、どれを重視して、無条件に信用し、どれを端から信用性の低いインチキやデマとして拒絶、却下するということではなくて、一旦は自分のフィルターをろ過させて、しっくりいくものと腑に落ちないものを選別しているのであって、全ての情報は出発点においては、夜空に見える星々のように観察する自分自身と同位置の距離感と同程度の価値を有しているということである。政治やマスコミのしていることは、それを権力に都合のいいように勝手に色分けをして、特定の色を受け入れて、特定の色は排除しろと国民に強制しているものである。何でそのような傲岸不遜な要求を自由主義国家であるはずの日本において忍従しなければならないのか。特に政治家は選挙で国民に選ばれた存在であろう。説明責任すら果たさずして、特権階級の貴族のように振舞うのはやめていただきたいものだ。それから付け加えればネットに投稿されているコメントなども、もちろん様々な意見があることは当然だが、純粋に市民感覚が反映されていると見ることはあまりに純朴すぎて弊害があるように思われる。これはもう大分、前から感じていたことであるが、政治的な工作活動とでも言うか、意図的な世論形成が、誰がしているのかとなるとはっきりとはわからないが、おそらくは政府系の職員が職務の一環として書き込んでいる内容がかなり多いように見受けられる。それで上の権威的な政治やマスコミ報道と、下の庶民的なネットコメントで、サンドイッチのように国民意識を逃げ場のないように挟み込んで、閉じ込められているかのような窮屈さを私はいつも感じているのだが、皆さんはそういう印象を持ったことはないのであろうか。そういうことを何一つとして感じないような鈍感さがあれば、私ももっと幸福な人生が送れたのになどと思ったりもする。さてそれでは前置きが長くなったが、そういうことを前提に肝心のコロナワクチンへの疑問について言及しようと思うのだが、あまり長文になると読む方も疲れるであろうし、何よりもその内容が単純にしてあまりにも核心を突き過ぎているように思えて、正直な所、今でも少し迷いがあるということと、それがもたらす危険性についてどうなのかと、まさかいきなり複数の官憲がやってきて、戦前の大杉栄のように投獄され、棍棒で思う存分、殴られたり、首を絞められて殺されるようなことはないとは思うが、今の政治とマスコミの何かしら血走ったような様子を見ていると、万に一ぐらいはそれに似たような状況もあり得るのではないかとふと不安がよぎったりもする。日本は段々と、特攻隊の突撃のような恐ろしい状況に突入しつつあるように感じられるのは、果たして私だけなのか。そういうことで今一度、時間を置いて、冷静に政治や報道の動向を見極めつつ、覚悟を決めてそれについて述べたいと思う。(吉川 玲)