龍のひげ’s blog

子供たちの未来のために日本を変革する

水晶の舟

主観と客観をいかに弁別して他者とコミュニケーションを取りながら自己の内省を深めていくことが出来るかということが、人間にとってのいや私にとって生きていく上での重要なテーマなのであろうが、これは処世術の問題であると同時に深遠な哲学上の追及でもあるのでそう簡単に答えが導き出せるものではないようだ。人は皆、主観とか客観などとその2元対立だけで簡単に世界が説明できるような意識と論理構造だけで生きているように見えるが、果たして本当にそれが正しい見方や認識の在り方なのであろうか。私はそうではないと思う。正確に言えば、そうでないと最近になって確信できるようになってきた。人間は極めて限定されていて閉ざされた意識や認識力の範疇において目の前の現実を「形式的」に解釈することを余儀なくされている。日常生活においてはその枠組みの強制力から逃れることができない。また枠組みの型に押し込められていることを自己認識することすらできないでいる。例外的にはドラッグがそのような形式的な現実の外へ意識を拡大させ、魂を飛翔させてくれるものであると言われている。私にはドラッグの経験がないので確かなことはわからないが、それは事実なのであろうと思う。しかし今更ではあるがドラッグの使用は法律で禁じられている。その理由は色々と指摘されているが、本当のところは形式的な現実認識が社会秩序の土台となっているからであることは明らかである。だからマリファナのようにさして健康上の問題や犯罪の増加に結び付かないような安全なものまで取締りの対象となっている。ならばドラッグの力なしに我々は、閉ざされた認識と理解の外にある世界や真の自分自身に到達することはできないのであろうか。身体に対して後遺症や中毒性のある薬物でなくとも人間の意識を引き上げて天上世界との結びつきを強化させ、共鳴させてくれる「物」はある。それは何かと言えば水晶である。水晶は確かに何らかの力を持っている。しかし万人に作用するかといえば疑問である。水晶に限らず他の石でもそうであるがそれを選び、持つ人との間には相互作用が生じていると見られる。よく言われることではあるが、人が石を選ぶときには石もまた人を選んでいるのである。そしてそのタイミングもまた石は選んでいるように感じられる。私は2年ほど前までは、いわゆるパワーストーンやパワースポットなど全く信じていなかったしまた興味もなかった。どんな物でも物は物だし、場所は場所で、そこに何らかの特別なエネルギーがあったり他の物や場所と差異があるなどとは到底信じられなかったのである。そういうことを本気で信じている人間は単純な精神構造の持ち主であると内心では侮蔑もしていた。ところが2年ほど前のことであるが、私はある栄養補助食品を定期購入することとなったアトピーはほぼ完治していたが、それでも冬の乾燥シーズンになるとステロイドの後遺症による皮膚のダメージが表面化してカサカサに荒れ痒みが再発することになるのがパターン化していたので、運動による体作りとサプリメントで不足しがちなミネラルを日常的に摂取する必要性があったからである。それで定期購入の初回の配送であるが、商品と一緒にプレゼントとして水晶のブレスレットが入っていたのだ。私はそれを見た時に無料で貰う物なのだから偽物のガラス玉か何かであろうと思って捨てようと思った。しかし何となく捨てるのも忍びないような気がして、その日から何となく左腕に嵌めて仕事をするようになったものである。因みに私は2年前のその時には53歳であったが、ブレスレットを嵌めたのはそれが生まれて初めてであった。それまでブレスレットなど腕に嵌めるどころか、手に触ってみたことすらなかった。それから2週間ほど経って気付いたことであるが、唐突な飛躍のように感じられるであろうが、自分は水晶という「物」と非常に相性がよいということがわかったのである。何がどうと説明することはできないのであるが、そのブレスレットをどういう訳か手放すことが出来なくなってしまったのだ。それがきっかけとなって徐々に他の水晶や様々な天然石のブレスレットを買い増やしていくこととなった。今ではもうマニアの域に達しつつある。恥ずかしながら商売が出来る程の数を持っている。とは言っても浄化とか何らかの効果などというような類のことは、未だにあるのかないのかよくわからない。実感とすれば何もないような気もする。しかし特に水晶について言えば私が欲する気持ちは理屈ではなくて、強烈な本能によるものなのだ。例えて言えば、親が我が子にそして小さな子供が母や父に引きつけられるようなごく「自然な」引力で無性に離れ難いのである。こんな物がこの世にあるとは思わなかった。水晶以外の石については本能的に引き付けられてと言うよりは、石の世界の魔法のような多様性と個性に魅惑されてしまって、とにかくマニアの心理で次から次へと変わったものや珍しいもの、自分が持っていないものが欲しくてならないということだ。金銭的な問題もあるので大抵は我慢するが、安い値段のものを見つけてしまうと魅入られたように買ってしまう。そういえば宮沢賢治も石好きであったということだが、彼は山や河川で採集したり、どこかで見たりする以外に買ったりするようなことはなかったということである。それに比べて安くて品質の良いものを自分なりに選別しているとは言え、次から次へと市場に出ているものを貪るように買い進めていく自分の品性の低さが本当に恥ずかしい。その上に今までこの話しをしてこなかったエゴイスティックな理由があることも先ず告白しなければならない。自分のこのエッセイに影響力があるなどと過信している訳ではないが、「宣伝」するような内容のことを書いてしまえば、そして結果的にその効果が不本意にも現れてしまって水晶やその他の石がブームのようになってしまえば必然的に物は不足するし、価格は高騰していくことになっていくことであろう。繰り返すが自分の力を過信する訳ではないが、今こうやって書いていてもそうなっていきそうな気がしてならないのである。仮にそうなると今まで安く買えていたものが何倍にも価格が跳ね上がって簡単には手が届かなくなってしまう。そうなると何れはごく一部の金持ちだけの道楽になってしまうことは目に見えていることである。なぜならそれが資本主義のルールであるからだ。そうなる事態を恐れるがあまり、私はこれまで本当はこの話しをしたかったのだが避けてきたのである。しかしよくよく考えればそれも心が狭いというか、エゴイスティックな心根で恥ずかしいことである。恥ずかしいことは認めるが、それでも宣伝したくないという気持には変わりはない。ああ気分が滅入ってきた。こんなはずではなかったのに。