龍のひげ’s blog

子供たちの未来のために日本を変革する

石の心と現実について

石好きの人ならわかってもらえると思うが、天然石はブレスレットなどで身に付けていると驚くべきことに石の見栄えに変化が見られる。インターネットの画像を見て注文して、何日かして送られてきたモノを見てがっかりすることが多い。商品画像を見て想像していたモノと現物との違いということであるが、プロが効果的に光を当てて性能の良いカメラで撮影した広告画像の見栄えが良いのは当然のことで、その辺の微妙な差異は購入する側も事前にある程度は了解しておかなければならないことではある。しかしそれを踏まえて言っても、手元に届いた商品は無味乾燥の色や模様の入ったモノであり単なる石ころに過ぎない。もちろん時には届いた梱包を開いて見た瞬間に素晴らしいと思えることもあるが、そういうことは稀である。大抵は買ったことを後悔はしないまでも、まあこんなモノかなと思える程度である。ところがである。不思議なことにその石のブレスレットを腕に数日つけているとある時に気付いてハッとするのだが、色艶が変化して生き生きとしているのだ。こんなことがあるのか、と最初の間は信じられない思いであった。もし自分と波長が合ってくることで石に変化があるのであれば、石は単なる石ころのモノではいということになる。そうであれば石には石なりの意識や心があるのであって、その意識や心に自分が無意識の内に交流しているのだと無性に嬉しくなってくる。そして石はモノではなくて生きていると感じられるようになり、もっとたくさんの種類の石と交流を持ちたいと考えるようになってくる。興味のない人にはオタクっぽく感じられるかも知れないが、石のマニアになっていく心理的な発見や経過というものはそういうことが典型的なパターンなのだと考えられる。
ところがである。私は良いのか悪いのか、人よりも疑い深くて、理屈っぽいのである。水晶や色々な石のブレスレットを集め始めた最初の頃であったが、ネットで翡翠のブレスレット(翡翠と言っても2千円ぐらいの安い物)を買った。それを腕に付けて1週間ほど経ったある日、外で太陽の光に当てて見るととても綺麗なのである。明らかに買った時よりも色艶がよくなっている。しかしそれは私の主観(気分)でそう見えるだけなのかも知れない。いわゆるプラシーボ効果といわれるものの心理作用ではないのか。そう考えた私は、業者は別であるが同じ粒の大きさと色合いで、恐らくはミャンマーの同じ鉱山から採掘して作られたと思われる翡翠のブレスレットをもう一つ買って、並べて比べて見たのである。比べて見るということは客観的な視点で冷静に評価し直すということだ。そうしたところ1週間腕に付けて綺麗に変化しているはずのモノと新しく買ったモノが見分けがつかないのだ。紐を切って粒をばらし、その全部をかき混ぜてしまえば恐らくどれがどれか判別不可能だと思われた。しかし神経を研ぎ澄ますように集中して見ると、気のせいか微妙に異なるようにも見えなくはない。じいっーと見つめ、その時に考え続けて辿りついた私なりの解釈は、その微妙な差異が何かということであるが、先に買って綺麗に色艶が変化したように見えた方の翡翠は物質的には何の変化もないのだけれど、目には見えない何かにうっすらと包まれているように感じられた。そしてもしかすればそれが「オーラ」と呼ばれるものではないかと私は考えたのだ。私には霊感というものがないのではっきりと区別できるほどにはわからない。わからないけれど、わからないなりに無意識レベルでは情報として受け取っているということであろうか。しかしここにおいても新たな疑問が発生する。活性化されたオーラが石の見え方を変化させているのであれば、どうして単独で見た時にはあれほどキラキラと美しく見えたのに、二つを客観的に並べて見た時にはその差異が消滅してしまって同じにしか見えないのか。霊感の有無に関わらず単独で美しく見えるのであれば、二つを同時に見た時にもその違いが明確にわからなければおかしいはずだ。と、ここまで考えを進めた時に何かとてつもない発見をしたようになった。現実は一つではないのである。オーラによって美しく見えている翡翠が存在している主観的な現実と、届いたばかりの客観的レベルに存在している翡翠の石は、唯一の同じ現実世界に含まれているように我々人間は認識するが、そこには二つの現実があるということなのではないのか。現実はレイヤーを重ねたように多層的、多次元的に実在しているのであるが、霊能力者でない私のような普通の人間には、カメラで対象物にフォーカスを合わせるように一つの現実レベルでしか認識や理解の像を結べないのである。だから必然的に二つの翡翠のブレスレットを並べて見た時には、客観的な翡翠の方にフォーカスが合せられて、もう一方のオーラに包まれた美しさが消えてしまうということになる。近くの天然石ショップの店主と話しをした時に興味深い話しを聞かせてもらったのだが、霊感の強い人が水晶を手に持つとその場でみるみる内に、水晶の透明度が増していくということなのだが、霊感のない私には到底信じられない思いであった。しかしそれは今考えてみるに、水晶の原子レベルで物質的に変化があるということではなくて、霊感の強い人間が手にするとあたかも透明度が高まったように透き通ったオーラに包まれるということなのではなかろうか。そうであればわからないでもない気がする。ともかくも水晶や様々な石は相互的な関係性の中で色艶や透明度を変化させて見せることによって人間に現実は一つではないことを教えてくれているのである。主観と客観ではピントが合っている現実の像が微妙にずれていて本当は人間は多次元的に存在しているのであるが、社会制度における一つの解釈の牢獄に閉じ込められていて、魂が飛翔することは許されないということである。