龍のひげ’s blog

子供たちの未来のために日本を変革する

水晶と天上世界

世の中には敏感体質の人がいるようで、パワーストーンのブレスレットやネックレスを身に付けただけで「石酔い」というのか、頭がくらくらしたり気分が悪くなったりするという。そんなことで嘘を言っても何の自慢にも得にもならないことは明らかだから本当なのであろう。残念ながら私にはそういう感覚や能力がない。パワーとか言われても、パワーストーンにしてもパワースポット(8月には富士山登山に行ってきたが)にしても特にエネルギーらしきものは何も感じない。何も感じないけれど、後から何かしらの意味があったのではないかということが、皮膚(肉体)感覚ではなくて、頭で考えて徐々にわかってくる。私は思考というフィルターを通さなければ何一つとして感得できない。だから私の場合は時間がかかる。それが数日の場合もあれば、数ヶ月とか数年ということもある。水晶を触って瞬間的にビリビリとした波動を感じたり、浄化を体感できるような人は凄いとは思う。しかしそういう人の多くはそこで止まってしまっているようにも見える。私は時間はかかるけれど、思考が自律的にどんどんと咀嚼しながら突き進んでいってしまうところがあるので、知らぬ間にとんでもない所に行き着いてしまっている。そこは一般的な社会常識レベルで見れば到底、他者とコミュニケーションが成立するような領域ではない。パワーストーンを持って頭がくらくらしたり、手がビリビリするようなことは不思議ではあるけれど、他者とのコミュニケーションが成り立つ現実生活の一部である。
水晶が私にとってどういう意味を持っているかといえば、癒しや浄化というよりも「あちら側の世界」との受信機であり、また増幅装置であるように感じられる。「あちら側」とは「あの世」のことかといえば、そうではない。霊的な世界ではないが、物質的な次元を超越した高次の領域からメッセージが送られてくる。こういう話しをすると、そんな馬鹿なと懐疑的な気持ちになる人が多いであろう。しかし私はそういう常識的な人相手に議論や反論をするつもりはない。なぜなら私自身が、同様に充分懐疑的であるからだ。自分で自分を疑っている。懐疑的な者同士が議論を交わしたところで何の意味もない。つい最近のことであるがこんなことがあった。私は仕事が休みの日曜日に朝から近くの健康ランドに風呂に入りに行くことが多い。その日も朝風呂に入りに行った。その健康ランドには有料の仮眠所があって、私は入浴後にそこでゆっくりと休息を取る。といっても寝たりはしない。リクライニングシートを45度位に倒して目を瞑り、瞑想をするのである。座禅を組むものではないので本格的な型の瞑想ではないが、そんなことは私にはどうだってよいことである。目を瞑って、呼吸を整え、心を鎮めて水晶をイメージする。澄み切った水が太陽の光を受けてきらきらと反射しながら、ゆらゆらと揺らめく水晶の内部へ私の魂が侵入していく。それが私の「水晶瞑想」である。何の効果があるのかと聞かれても困る。何かの効果を期待しても、そんなものが本当にあるのかないのか実証不可能である。その日は仮眠所の室内に爆音のごときいびきを立てて寝ている人がいて、とても瞑想どころではなかった。そういうことは想定内でいつも耳栓を持参しているのだが、その日のいびきの音量は壁を揺らすほどで到底、効き目はなかった。そういう状況で瞑想も寝ることもできずにどうしようかと考えた結果、シート横の袖机に設置してあるTVをヘッドフォンで見ることにしたのであった。それまでその仮眠所は何度も利用しているがTVを見るのは初めてであった。暗くてヘッドフォンのジャックの差し込み口がわからず、わざわざ店員を呼んできて教えてもらった。それでTVを見ようとしたが、映画も見れるようなのでリモコンを操作して新着の映画を見ることにした。それが2017年に公開された『ジオストーム』というアメリカ映画であった。簡単に内容を説明すると、米中が中心になって構築された人工衛星による気象防衛システムの話しである。地球規模の壊滅的な被害を防ぐためにダッチボーイという愛称のシステムによって気象は監視され、コントロールされていた。しかしある日突如として衛星の気象管理システムに誤作動が発生し、世界中で異常事態が発生することとなる。このままでは地球嵐(ジオストーム)に襲われて大規模の自然災害が頻発し、人類滅亡の危機である。原因を調べたところホワイトハウス内部の人間がウイルスをダッチボーイに仕組んでいるらしいことが発覚する。そして主人公の男は、気象管理システムの修正を行うために宇宙の衛星に命を懸けて乗り込んでいくことになる。毎回、おなじみのハリウッド映画的アルマゲドンのパターンである。はっきり言って、面白くもなんともなかった。面白くはなかったが、見るべき価値がなかったかといえば話しは別である。結論から言えば、私はその映画を「何者か」によって見せられたのだ。その何者かとは超現実的世界に存在する天使的な存在である。笑いたければ笑っていただいて結構だが、私は冗談を言っているのではない。本気だ。ただし言うまでもないことだが客観的に証明できる現実でないということは確かである。客観的でないことは他者と共有できない。よって誰かに信じて貰おうなどと期待することが元から間違っている。しかし所詮、客観的な現実とは形式的な慣習のようなものであって、現実とは一つではなく、いくつも存在するのである。人間には理解し難いだけで、天使が実在する時空間の現実も恐らくはあるのであろう。
映画『ジオストーム』は興行的にも失敗だったようである。日本での知名度もほとんどない。私がその健康ランドの仮眠所で見なければ、この先ずっと見ることもそういう映画があったことを知ることもなかったであろう。それでは何で私がその映画を見せられることとなったのか。フィクションの映画を見ることに何の意味があるのかということである。先ずフィクションとは言っても、今の世界の状況と無関係に作られた訳ではない。温暖化であったりハリケーンや台風などの異常気象の現状があってのフィクションである。それに今やジオエンジニアリング(地球気候工学)は、世界の最先端、最重要の学問であるはずであって、大国や先進国が研究していないはずがないものである。研究されていないどころか、1970年代ぐらいから既にアメリカやソ連は研究を開始しているものである。よってかれこれ50年近くの年月が経過しているので、技術や実用化への進展があったとしてもおかしくはない。しかし気象操作の技術は、現時点では軍事と深く結びついていて、いうなれば「平和利用」のレベルにまでは政治意識的にも技術的にも未だ到達していないということが言えると考えられる。それゆえに最高度にタブー視されていて日本は当然であるが、世界中のマスコミも本格的な追及や報道が許されない領域となっている。そういうことを踏まえて考えるに、では何でそんなタブーがアメリカ映画の題材になるのかということである。さて、皆さんはおわかりになるであろうか。私なりに解説すれば、それがアメリカという国であるからだ。アメリカの情報操作は非常に巧妙で、絶対的なタブーを映画という分野で「娯楽化」させることによって国家機密の核心部分を守る隠れ蓑にしている。娯楽とかフィクション、映画という枠組みの中だけで議論されたり批判されるように大衆の意識を誘導、操作しているのである。当然のことであるがアメリカの映画産業とCIAにも深い関係がある。アメリカの映画は大衆娯楽であるといっても、娯楽にとどまるものではなくて政治や諜報とも水面下では結びついているということである。要するに水晶は生活の中で、私にそういうことを考えさせたり気付きを得させるために天上的な存在との媒介装置となって作用している(ような気がしてならない)ということだ。