龍のひげ’s blog

子供たちの未来のために日本を変革する

騙される人々

騙される人間に特有の思考パターンというものがある。それは何かと言えば、「信用できる人」を探そうとすることである。この人だけは信用して大丈夫という相手を心の中で常に探し求めていて、そしてある日ついに見つけるのである。それが「この人だけは信用してもよい」投資家であったり、霊能力者であったり、政治家であったり、コンサルタントであったりで人種は様々であるが、ともかくもご当人にとってはやっと信用できる何者かと巡り合えてめでたし、めでたしということである。しかし大概はその人に騙される運命を辿ることとなる。そしてそういう人間に限って、騙された、騙された、信用してたのに騙されたと被害者意識を剥き出しにしてヒステリックに騒ぎ立てることになる。このような騙される人間特有の思考パターンの一体どこに問題があるのであろうか。こういうタイプの人間は、世の中は嘘つきや詐欺師のような悪人が溢れているが(実際にその通りであるが)、希少で貴重な「信用できる人間」に巡り合えて、何らかの関係やつながりを持つことが出来さえすれば、自分が豊かになったり、幸福になれると信じ込んでいる。だからいつもそういう相手を探しながら日々を生きている。このような思考回路は騙される運命を当初から織り込んでしまっているものである。なぜかと言えば、信用できるかどうかは相対的なものであって、絶対的に信用してもよい人間などこの世に存在しないという基本的な理解が欠落しているからだ。言い換えれば、どんな信用できそうな人物でも、ある一定の環境下や条件においては、平然とかどうかは別にして必ず嘘をつくということである。騙される人間は、信用できる相手を貪欲に探し求めることによって無意識の内に自分が騙される役回りの現実を作り出してしまっているとも言える。現実とは常に自分の何らかの欠落を指摘するが如く浮き彫りにして映し出す鏡のようなものであるからだ。
全ての人間がある一定の環境下で嘘をつくということが真理であるならば、人間不信に陥ってしまって生きていけないではないかと言われるかも知れないが、そんなことはない。ある人が信用に値するかどうかは相対的なものであって年中、嘘ばかりつきながら生計を立てているような詐欺師もいれば、一国の総理大臣のようにまるで息をするように何のためらいも罪悪感もなしにすらすらと嘘をつき続ける技術なり精神的な境地を獲得している者もいる(大体において政治家という人種は嘘をつくプロである)が、その一方で私のように(?)信用してもよい明確な根拠というものはなくとも概ねは誠実そうで、少なくとも嘘を生業にして生きている者ではないことが明白であるということもあるであろう。そのバランス感覚の中で堅実に生きている限りは、それほど酷い騙され方をすることもないのではなかろうか。要するに騙す人間が悪いには決まってはいるが、騙される方にも騙されるだけの理由があるということだ。信用できる誰かを求めながらいつも騙される人間というものは、人間の見方が浅いし短絡的なのだ。だから主観的に「この人だけは大丈夫」ということになってしまう。しかしどれほど真面目で優秀な人であっても、いや真面目で優秀であるからこそ、その人の背後に控えている全体性の嘘を否定できないという状況はいくらでもある。いくらでもあるという以上にむしろ世の中はそういうことの方が多いのではなかろうか。信用できる誰かを求めている人は、そのような全体性の嘘や構造化された嘘という次元になると全く太刀打ちできなくなることがほとんどのようだ。そこまで知的レベルがついていかないのである。また、だからこそ信用できる誰かに依存しようと探し求めることとなり、下手にたくさんの金を持っていたりなどすれば鴨にされることにもなる。まあ最終的に騙されるかどうかは単に知的レベルだけの問題ではなくて、その人の人徳や運にもよるのであろうが。
知的レベルが極めて高くとも騙されるパターンもある。それは宗教や霊能力などの分野に多く見られることであるが、信用云々の次元ではなくて「崇高で特別なもの」を求めようとする心理傾向によるものだ。ところがこれも危険な道である。なぜなら教祖や霊能力者などは自分を特別な者だと相手に信じ込ませるプロであるからだ。これも理屈は同じで要するに需要と供給があって成り立つ一つの幻想である。確かに本当に教祖や霊能力者は特別な存在なのかも知れないが、それを求める心理があるからこそそう見えるという側面が大きい。それに言ってしまえば人間存在は一面的に解釈できるような単純なものではなくて、誰もが崇高でありつつ下賤でもあり、特別でありつつ凡庸なのだと思われる。どこに光を当てるかということによって見え方が全然、変わってくる。そういう多面的、多義的な解釈なしに究極的な崇高さや特別性を追い求めていると必ず騙される境遇に陥る。オウムの麻原彰晃にしてもそうだが、信者は自分の内側にある崇高さや特別さだけを追い求めていれば何の問題もないというか、オウムだけでなく宗教そのものにすら関わりを持つ必要性はないはずなのである。外部に追い求めているからグルと弟子と言う関係性の中で絶対的に支配されてしまうこととなる。そしてその結果、東大を出ているような知的能力がある人間までもが死刑になってしまうこととなる。プラトンだったかソクラテスだったか忘れたが、外部に力や真理を求めてはならないのだ。生きている限り自分の目を通して見るこの世界は自らの内面の反映である。自分が世界を作っているのだから反映されている像には崇高さも特別性も有り得ない。そういう像を生み出す心にこそ全ての力が秘められているのだ。