龍のひげ’s blog

子供たちの未来のために日本を変革する

アマゾンとキンドルについて

やられてしまった。衝動買いである。それも、これだけは決して買うまいと心に決めていたものを買って(正確には、予約注文して)しまった。買うまいという意味は、買おうか、買うまいかと迷っていたということではなくて、それ以前に内心ではその商品を馬鹿にしていたのである。それが何かと言えば、電子書籍である。私が買ってしまったのは、アマゾンのキンドルだ。それでは、何故、私がこれまで電子書籍を馬鹿にしていたかと言えば、電子書籍とは結局は、大衆向けのベストセラー本の売り上げをより一層、引き上げるための装置というか、おもちゃのようにしか考えていなかったからだ。私は、個人的には新刊本はほとんど買わない。アマゾンで検索して自分が興味のある著者や内容の本を探し出しては注文を入れている。アマゾンの凄さは今更、並べ立てる事でもないが、そういう買い物が簡単にできることである。本を買うごとに知的好奇心が触発され、増進されてゆくのである。書店では手に入らないような絶版本でもアマゾンのマーケットプレイスでは検索一つで列挙される。アマゾンには利便性というよりも、稀少で尚且つ自分にとって価値のある本を探し出して手に入れる喜びがある。しかし、そのような本は現在の市場から消え去ってしまった、言わば幽霊のような存在なので当然のことながらデジタル化の対象にはなっていない。また今後とも成り得ない。全体から見ればごく一部のベストセラー本だけが、電子書籍端末の登場によって突出して売り上げを伸ばすことは、出版社やベストセラー作家や、電子書籍の端末機を製造している会社にとっては、喜ばしいことであろうが、社会全体の文化という側面から見れば、決して底上げには繋がらないであろうし、むしろ更なる低俗化へ流れが加速化されてゆくことになるのではないかということだ。だから私は内心、馬鹿にしていたのである。ところがある事実を知って、考えが変わってしまった。青空文庫の存在である。無料でダウンロードできる本があるらしいことは量販店の売り場の広告で何となく見ていたが、どうせ無料なのだから大したものはないであろうし、その数も誇大広告だと勝手に思い込んでいた。ところがどうやら、そうでもなさそうなのである。私は有名な古典本も、思いついたようによくアマゾンで買っている。たとえば最近では、カフカの『城』を買って読み終え、感銘を受けたので、『審判』を買ったところである。また芥川龍之介の『地獄変』が読みたくなったので所収されている短編集を探して買った。アマゾンでは新品で買えば送料が掛からないので、一回の買い物の金額は小額だがひと月に何回も利用しているとそれなりの金額にはなる。それで試しに調べて見ると、何と『城』も『審判』も『地獄変』も青空文庫に入っているではないか。インターネットでちらっと見ただけだが、他には西田幾多郎の『善の研究』などもリストに入っていた。もちろんパソコンでも読めないことはないが、パソコンは到底、文庫本のように持ち運びはできない。そういう訳で、これは電子書籍端末を買わずにはおれない、いや、買わなければ損だという気持ちになってしまったのである。考えが変わって、アマゾンサイトのキンドルのページを眺めていると無性に欲しくなってきた。それで購入の予約を入れた次第であるが、買って、使って見て、使い勝手が良いのであれば、もう一台別に、息子に買ってやろうと思っている。それにしても電子書籍はともかくとしても、アマゾンの商売の上手さには抗い難いものがある。今や私は、アマゾンのヘビーユーザーにして、軽度のアマゾン中毒である。かなり抑制しているつもりではあるが、嵌まってしまうと買わずにはおれない。指が無意識に反応して、クリックしてしまうのである。主に本と映画のDVDであるが、毎月、口座から何千円かの引き落としが発生している。今月の引き落としは、先月、何を買ったのか覚えてもいないが1万8千円もあった。止められない、止まらない、だ。アマゾンでの買い物に関して、私は全般的には満足しているが、全面的に満足している訳でもない。たとえば、今ではもう慣れてしまったが、あの、いかにも無味乾燥の茶色の梱包はどうにかならないものだろうか。愛想が無さ過ぎると言うのか、まるで戦争中の前線基地に本部から軍需物資が搬送されてきたような索漠とした気分になる。会社間のやり取りであれば、飾り気など不要であるからそれで十分だが、個人の買い物は少し意味合いが異なる。買い物をしたという心理的な華やかさとは対照的に、運送会社のドライバーからあの茶色の梱包を手渡される度に、何となく、うんざりとしてしまうのである。しかし、うんざりはするが、感心もする。アメリカ人と日本人の感性の違いもあるのであろうが、ゴミになるだけの梱包や包装を重視しない合理性がそこにはあり、特にアマゾンの場合には、余計なところには一切、金をかけずにその分を全て顧客の利益(=配送料無料)に還元するとした、徹底した顧客第一主義の思想が貫かれ、反映されているように考えられるからである。アマゾンの創業者、ジェフ・ペゾスによる、頑ななまでの顧客重視の経営哲学には敬服せざるを得ない偉大さが感じられるが、個人的には正直なところあの梱包だけは、もう少しセンスの良いものに変えて欲しいと思う。ついでに言えば、今回のキンドルの注文は本体だけでなく、反射防止フィルム、別売の電源アダプター、レザーカバーの計4点を予約したのであるが、何とその4つの商品の配送予定日が全て別々なのである。最初に届く予定が反射防止フィルムで11月22日、その次にレザーカバーが11月24日、電源アダプターが12月29日で、最後に本体が来年の1月8日だとのことである。送料や手数料が掛からないからいいようなものであるが、そこには買い物に関する情緒的な要素が一切、排除されている。アマゾンのシステムでは合理性、利便性は徹底的に追求されているが、無味乾燥の梱包と同じように購買者の情緒は考慮されていないのである。本体が届く1ヶ月も前に、反射防止フィルムやレザーカバーだけが別々に送られてきても特に問題はないが、味気ないだけである。関連した商品であれば本体発送の時に一緒にまとめればよいではないか。まあ、しかしアマゾンの商売のやり方には情緒を排しても、顧客メリットが余りあるのでやむを得ないとも言える。企業も国も個人も、世界と有機的にリンクした、しっかりした哲学が確立されていなければ生き残れないということであろう。何かを犠牲にして、何かを生かすのである。そういう意味ではアマゾンは最終的には絶対的に信用できる。よって一人の日本人としては、電子書籍ソニーのリーダーや楽天のコボを買いたいところでもあったが、やはりキンドルなのである。本物の思想がある者には敵わないのだ。来年の1月8日か、ああ、早く欲しい。2日前まではあれほど馬鹿にしていたのに。