龍のひげ’s blog

子供たちの未来のために日本を変革する

フランス的ユーモアの品位

フランス人のユーモア感覚とは、3本脚や3本腕の戯画で誰かを侮蔑して、楽しむところにあるのだろうか。日本人には到底、理解し得ない、高尚な芸術性のあるユーモア感覚である。サッカーのGK川島選手の4本腕から、力士の3本腕に数が減っているところから、フランスのメディアは腕1本分だけ良心的になったと考えることも出来ようが(こういうのが日本のユーモア感覚である)、自分たちだけで、ユーモアだ芸術だと自賛するのも結構であろうが、そういう風に肉体的な奇形を笑いにすることがフランス人の一般感覚であるのならば、フランスという国は今後、一切パラリンピックに参加する資格はないし、また国際社会は、参加を認めるべきではないと思う。そうは言っても、どうもフランス人は元々、他者や他国からの批判を素直に受け入れることが出来ない精神性の国民のようでもある。たまにフランス映画を見ていても感ずるところであるが、拡がりを持ち得ない文化感覚とでも言えばよいのか、独りよがりで、自己満足的な傾向が非常に強いように思われる。分かり易く言えば、これと言った根拠もないのにプライドだけは妙に高くて、とにかく頑固、強情であるように思われるということである。たとえばフランス映画にはどういう訳か人間の姿をした天使や悪魔が、家庭の中に現れるシーンが多い。天使や悪魔が主人公の生活をこっそり観察しながら、何やらこそこそと話し合っているのである。これなどもフランス人が、他国民に比べて、天使や悪魔などの超越的な存在に精神的に近しいと考える自信と自意識から、生み出されている映像なのだと考えられるものである。またフランス映画は、自分たちとは価値観や考えが違う人々に対して、何かを伝えようとしたり、楽しんでもらおうとする努力の方向性が感じられない。つまりだらだらと長いだけで退屈でしかないのだが、フランス的には芸術性が高くて、価値のある映画ということになるのであろう。もちろん例外はあるが、大体はそんな感じである。要するにそのような、よそ者にとっては鼻に付くものでしかない独善的な国民性から、3本脚の戯画で何かを風刺するような表現が正当化されることにもなるのであろうと考えられる。そういう国には抗議しても無駄である。逆にプライドを傷つけられたと考えて、反発されるだけである。日本には、人を見て法を説け、という言葉がある。フランスの精神的なレベルに合ったユーモア感覚でもってお返しするべきであろう。そういうことで言わせていただければ、フランス人はワインの飲み過ぎで、染色体が欠損してしまっているのではなかろうか。そうでなければあのような愚劣な漫画を平気でユーモアだなどと言える訳がない。フランスという国は頑固、強情であるだけでなく実は、意気地なしでもある。先の第二次世界大戦においても、日本は敗れはしたものの20歳になるかならないかの多くの若者たちが、命を懸けて最期まで戦った。イギリスもドイツを相手に勇敢に戦った。ところがフランスはどうだ。1939年の9月にドイツはポーランドに侵攻し、ポーランドと同盟関係にあったイギリスとフランスが参戦したことによって第二次世界大戦が始まったものの、海を隔てたイギリスはともかくも、ドイツと陸続きの隣国であるフランスが、ポーランドに派兵することもなく、翌1940年の6月にはナチス、ドイツにパリを占領されて、あっさりと降伏してしまったではないか。歴史的に見ても参戦を表明し、大戦の端緒を作っておきながら、まったく戦闘を交えずに降伏するような情けない国はフランスだけである。歴史に、もしもはないであろうが、もし当時のフランスにドイツと戦うだけの気概があり、ドイツを打ち負かしていれば、その戦闘はヨーロッパの領土紛争に留まり、世界戦争にまで拡大することはなかったであろう。それはつまり日本が1941年の12月に真珠湾攻撃をする展開にはならなかったことや、1945年にアメリカに原爆投下される事態にもならなかった可能性を意味するものである。ともかくもフランスの偉大さとはせいぜいがジャンヌ・ラルクかナポレオンまでである。その後は、単にワインの飲み過ぎで強情なだけの国である。敢えて言えば、ヒットラーのユーモア精神によって、降伏後の全てのフランス国民が当時の仏領であったマダガスカル島へでも強制移住させられていた方が、現在のフランス精神は、芳醇なワインの如き柔らかな味わいを持ち得たことであろう。これはフランス的なユーモアの流儀で言っていることである。あなた方に自国のユーモアを楽しむだけの精神的な余裕があればの話である。