龍のひげ’s blog

子供たちの未来のために日本を変革する

政治とマスコミの関係性

石破氏の発言を擁護するつもりはない。絶叫のデモが、「本質的にはテロとあまり変わらない」という内容は、政治家の発言として妥当かと問われれば否定せざるを得ない。しかしその石破氏の発言を、あたかも鬼の首を取ったかのように批判するマスコミや野党の姿勢も、国民的に見てどうなのだろうかと疑問に感じる。石破氏の発言を今回の特定秘密保護法案を離れて考えて見るに、たとえば右翼団体街宣車ならどうなのだろうか。数十台の街宣車が連なって、拡声器の大音響でがなり立てる光景はよく見られる。思想の右、左に関わらず近隣の住民や通りがかりの通行人にとっては、大変、迷惑である。しかし誰もが、しばしの間、我慢していればその内、遠くの方へ消え去ってしまうであろうと考え、特に問題視したりはしない。右翼団体もその辺は心得ていて一か所で停留して活動することはない。だが、もしあれを朝から晩まで一日中、自宅や会社の前でやられたらどうだろうか。誰でも、今回の石破氏の発言を厳しく批判している朝日新聞でも、「テロとあまり変わりない」とは感じないであろうか。普通の感覚の人間であれば、多少なりともそう感じると思う。ならば議員会館の前での大音響と、右翼団体の街宣活動は本質的に何が異なるのかという問題にはならないであろうか。朝日新聞はデモ活動の声が大きくなるのはやむを得ないと擁護していたが、それはその活動内容(つまり特定秘密保護法案の反対)を支持していて正しいことを主張しているからだとの見解に基づくものである。しかし右翼であれ、左翼であれ、当事者は誰もが自分たちは正しい主張をしていると言う信念の下で活動しているのである。要するに社会の公器を自任するような新聞社がご都合主義的に、自分たちの意に沿うデモは容認し、意に沿わないデモは公正の視点を装って批判したり、排除するような姿勢は間違っているということだ。たとえば在特会のデモ活動への批判についても同じである。確かに差別を助長するようなデモは批判されてしかるべきであるが、彼らの主張内容にも多分に正論は含まれているものである。特別永住資格だけでなく、パチンコ利権の問題などは、パチンコ依存症の人間が多数、存在することを考えれば、政治的に決して無視できないことのはずであるのに、ヘイトスピーチなどと命名して、その活動の一面だけを大きくクローズアップさせて厳しく批判し、社会から排除するように仕向けてきたのはマスコミである。そしてそのようなマスコミの一方的かつ全面的な否定報道によって、悪の差別団体として社会的にカテゴライズされ、裁判で1千万円を超える賠償命令が出される流れともなっているものである。そういう風に、マスコミ権力の力学によって世の中の正邪が決められている部分は確かに大きく存在していることは事実であるのに、その影響力の大きさに見合った公共性、公益性と言うものを本当にマスコミ機関が持ち得ているのかという問題がある。それが、私が何度も提起するところの今日的な社会テーマなのである。或いはもっと身近なことで言えば、家庭内で夫が妻に対して大声で怒鳴るような行為も(そういう喧嘩はどこの家庭でもあることだが)、妻がDVだと主張すれば、現在のDV法ではそれも暴力の一環ということになるのである。一方の側の主観によって暴力が成立するようなおかしな法律を支持してきたのはマスコミである。ならばその文脈で言えば、議員会館の前で大音響で絶叫するようなデモに対して石破氏が主観的に、テロ(つまり暴力)とあまり変わらないと考えたとしても、第三者的には批判できる筋合いのものではないということにはならないであろうか。もちろん冒頭で述べたように、政治家の発言なのでその状況において妥当かどうかは別問題であるが、発言に対するマスコミの批判という観点から検証すれば、マスコミの論理というものは随分と身勝手で破綻していることが多いものである。つまり中身は乏しいのに、政治への影響力だけを暴力的に振り回しているマスコミの姿がそこには見られるということだ。もう一点述べれば、マスコミの常套手段として(特に通信社によく見られる手口であるが)、政治への介入手段として、海外機関の声を虎の威を借るように紹介することによって、つまり外圧を利用してのコントロールが試みられることが非常に多い。外圧に極めて弱い日本の政治家の心理につけ込んだやり口であるが、こういうことも本質的には国内政治の独立性を蔑ろにするものでしかないものであり、マスコミの公共性や公益性の観点から考えて問題が大きいと言えるのではなかろうか。今の日本は原点に立ち返って、政治とマスコミの関係性が問われている時代であると思える。