龍のひげ’s blog

子供たちの未来のために日本を変革する

模範なき民主主義

模範となるべき民主主義など、古今東西どこにもないという点については同感であるが、政治の右、左は「極限」を想定して決すべきであるという考え方はどうであろうか。要するに強い政治を認めてしまえば、戦争に突き進む可能性があるから、政治はマスコミや市民感覚に従属しているぐらいが丁度よいということになるのであろうか。しかし私から見れば、それはあくまでも左寄りの思考であって、畢竟するところ政治そのものの否定でしかないと思われるものである。なぜなら政治とは歴史を通じて見ても例外なく、本質的には「右」の思想でしか有り得ないからだ。極論すれば「左」の市民感覚だけで国家は成り立たないのである。右(国家権力)があるからこそ、その反作用としての左(市民感覚)が生じるのであって、そのバランス感覚が民主主義の正体であるとも見れる。バランス感覚であるから、そこには右、左の概念が、あたかもシーソーの両端に座っている男女のように平等(同等)のような錯覚がある。しかしここにおいて重要なことは、そこに国家がある限り、右(国家権力)は左(市民感覚)なくして、無前提に存在する起点であるが、左(市民感覚)は右(国家権力)があって二次的に発生する、その時代と国に固有の正にバランス感覚なのである。よって模範となるべき民主主義がないということはその通りであるが、国家的な統治の下では否応なく右が主体(起点)とならざるを得ないものであり、極限状態を想定して右の国家権力と左の市民感覚のどちらを選ぶかという思考は、それ自体がバランスを欠いた極論のように私には思える。またバランスを欠いた自転車は転倒するように、民主主義もバランスを欠くと非常に危険である。果たして市民感覚だけで国家の安全や国民の生命が守られ得るものであるかということが今、問われているのであり、中国のような国の脅威が高まっているのであれば、民主主義の重心も右に傾くことは一つの必然であり、極限の想定は別の次元の問題であると言えよう。
さて、そういう流れで特定秘密保護法案に強固に反対する政治家にさらに言いたいことがある。一部のマスコミはこの法案が成立すると、恣意的に秘密に指定された事柄が永久に秘密のままにされる可能性があると批判する。しかしこの法案における秘密指定の更新期限は5年となっているものであって、野党が自民党を倒して政権交代すれば、その秘密事項を精査して、おかしなものがあれば解除すればよいだけのことではないのか。むしろ政権交代時に、前政権が権力維持のためにこんな下らないものまで秘密に指定していたと有権者にアピール出来るのであるから、野党も含めた政治全般がきちんとさえしていれば、そんな危険な法律にはなり様がないと言えるものである。反対に現政権はその秘密を維持させ続けたいのであれば、次の選挙で敗北しないために国民に支持される政治をしなければならないことの大きな動機付けとなり、民主主義的に考えても危険であるどころか、むしろ安全保障と政治の健全化の両立が成し得る良薬であるとも見れるものである。それとも野党はもう政権を奪還するだけの気力も自信もないということなのだろうか。多分そういうことだとは思うが、それはそれで、そちらの方が余程問題である。