龍のひげ’s blog

子供たちの未来のために日本を変革する

社会における個人の演技性についての考察

さて、何を話そうか。政治の事よりも身近なところから始めることにしよう。正月の3日であったか、こういう光景を目撃した。昼食に家の近くにあるファミレスに行ったのであるが(正月なのでファミレスくらいしか開いていなかったのである)、私は一人であったが、店内は家族連れで騒々しくも賑わっていた。私が食事を食べ終えて、コーヒーを飲んでいると、3~4歳くらいの男の子が、フリードリンクの場所で遊んでいて、サーバーから注いだジュースをその辺りの受け口に流していたようであった。すると、20歳代の若い父親がやって来て、大声で叱りつけたのである。「こら、何やってんねん。こんな所にジュース流したらあかんやないか。しばくぞ、ぼけ。」とか、いかにも大阪人らしい叱り方であったが、男の子がワァー、ワァーと泣いているのに、その上に店中に響き渡るような大声で父親は、「御免なさいと言え。」と怒鳴りつけているのである。その声に他の多くの客たちが、呆れて振り返るほどであった。私の横の席で食事をしていた家族連れの父親も、不愉快そうに小声で何やら文句を言っていた。小さな子供が何か悪さをして、親が叱るのは当然である。しかし皆が食事をしている公共の場所で、そこまで大声を出して子供を泣かせてまで叱る必要があるのだろうか。場を弁えた振る舞いであるとは、到底、言えないものであると思う。私の目には、その若い父親は、子供が飲食店などの場所で他の人に迷惑をかけるようなことをしていても注意をしないで放任している非常識な親という世間の批判の目を過大に意識し過ぎるあまりに、そのような、これ見よがしのパフォーマンスというか叱り方をしているように見えたのであった。若者の悪口はあまり言いたくはないが、それでも、若者特有の思い込みの強い、節度を欠いた行為は、いかにも哀れで無様なものであると感じたものである。本人は恐らくは、きちんと子供をしつけることの出来る常識的な大人の親であると自覚しつつ、その役割を公衆の面前で立派に演じているつもりなのである。しかしそのような未熟な精神が土台になった道徳感覚は、一歩間違えれば、虐待と裏返しになっているのではないかと心配でならないものである。それでしばらくして見れば、その父親と子供がテーブルに戻って、母親らしき若い女性(母親かどうかは定かではないが)と一緒に座っているのが見えたが、その女性は自分の相方があれほど大声で子供を怒鳴っていたにも関わらず、平然として、しらっとした感じなのである。その辺の感覚もちょっとわからないところがある。男性の行動に対して、動揺したり、不快感を持っている気配はまったく感じられないものであった。若いから常識が無いとか、馬鹿だと言ってしまえばそれまでだが、少なくともその父親を見ていて感じたことは、ある種のこれ見よがし的な演技性のある態度というものは、多くの人に違和感や嫌悪を感じさせるものであると同時に、深い部分では密接に社会性に通じるところがあるゆえに、ある一時期における身近な者にとっては、たとえばその女性のように、頼りがいがあるように感じられたり、魅力的に見えるものなのではないかということである。個人の演技性向と社会性とは、社会学的にも密接不可分で、非常に関連性の高い興味深いテーマであると考えられるものである。たとえば芸能人の離婚やスキャンダルについての会見などで、傍目には芝居がかっているようにしか見えなくとも、また到底、本心だとは思えなくとも、涙を浮かべながらいかにも尤もらしくも殊勝なことを述べている光景はTVなどでよく目にするものである。ああいうのも深いところでは、社会全体が嘘を求めているという構図があるのだと思う。そのような場面では必ずしも本心や真実が語られる必要はなく、また、求められてもおらず、観客や大衆が心のどこかで欲している物語を本能的に察知して、瞬時に演技で提示して見せる能力が要求されているのだと思う。つまり社会性とは、虚構の産物であるとも言えるものである。よって虚構を作り出したり演出する能力が、その人の魅力になっていることが多いとも言えるであろう。なぜなら人間は誰でも社会に深く繋がりたいという欲求から離れることが難しいからだ。私のようにそうでない人間もたまにはいるが、私のようなタイプははっきり言って(本当ははっきりは言いたくないけれど)、変わり者であるし、通俗的な意味では魅力的ではないと認めなければならない。まあ人間の魅力と言うものをそう簡単に分類したり、要約出来るものではないが、大衆世俗的にはそういう要素が大きいと言えるのではなかろうか。そう言えば思い出すに、若い人は知らない人もいるかもしれないが、1980年代にロス疑惑と言う世間から大きく注目された事件があったが、あの三浦和義という人物は本当に興味深い人格の持ち主であったと思う。作家の島田荘司氏が著した大部のノンフィクションである『三浦和義事件』を読んで、深く考え込んでしまったこともあったが、事件当時は演技性人格障害などとも言われていたが、演技的な性向が、本当に三浦和義の人格の本質であったのかどうか、わからないところがあった。確かに、いかにも演技臭くは見えたものであるが、最愛の妻とされた女性が銃弾の犠牲となって、テレビカメラの前で男泣きに泣いて見せて、その姿が誰とは言わないが社会的な地位のある知的な女性を大いに感激させたことも事実なのである。やはりそこには演技的な性向が、一つの概念として社会性と深く結びついているところからもたらされる錯誤のようなものがあったのではないかと想像されるものである。いずれにしても三浦和義は演技性だけでなく、並々ならぬ知性と精神力をも持ち合わせており、日本の裁判では最終的には無罪を勝ち得ていた訳だから、単に白か黒かという問題以前に、この世の真理や真実とは社会的にフィクションとして作り出されるものに過ぎないと言う達観や信念が、三浦和義という一つの人格を貫いていたのではなかったかとも思えたものであった。私などとはあらゆる意味で対極的なタイプであるが、正反対のものを見ていると自分自身がよく見えて来るということもあり、そういう意味でも本当に興味深い人物であった。仮に社会の実体や真相が、巧妙な嘘や演技で組み立てられているものでしかないならば、生きている間に一個人が真理や真実に拘り続けることに一体、何の意味があるのかということである。権力にとって都合の悪い個人の嘘や病理は人格障害に分類されて、権力を正当化したり浮揚する国家的な嘘や幻想は正義になるのかという問いかけである。そういう哲学的なテーマを三浦和義は、我々に投げかけて、宙に残したままに死んでしまった。タイプはまったく異なるが、作家の三島由紀夫の最期もどこか演劇的であった。輪廻転生を題材にした小説である、豊饒の海第4巻『天人五衰』の虚無的なラストシーンを書き終えた直後のあの自衛隊での自決は、最終的に国家の空虚に立ち向かうためには演技的な死を持って、一つの美学として社会を賦活せしめる以外に方法はなかったのであろうかとも思う。このように演技と社会とは深く結びついているのである。なぜなら社会とは、人が生きていく上での舞台であるとも言えるからだ。まあ、個人的には、あまりに哲学的なことや、社会を相対化させ自らの精神と対置させて、いかに生きるべきかなどとの思考は、少なくとも日常生活の中ではそぐわないだけでなく、不幸の原因にしかならないという反省もなくもないが、人間は結局、自分に出来ることをやる以外に道はない。私はあらゆる意味において「役者」には成れない。華がないとも言える。そういう能力を与えられていないし、また成り得る素質もまったくない。ただ泥沼の虚しさの中に埋没していくだけである。しかし徹底した欠落の自覚が才能となることもあるであろう。私に唯一出来ることは、自分が感じたり考えたことを自分なりの言葉で紡いでゆくことだけだが、それすらも前回に述べたように憂鬱に引っ込んでしまうのである。悲しい事ではあるが、いや本当は大して悲しいとも考えていないのであるが、それもまた一つの人生である。一個の魂にとっては、全てが真実であると同時に、全てが虚妄でもあるところの大いなる人生なのだ。