龍のひげ’s blog

子供たちの未来のために日本を変革する

大いなる悩み

人間は悩む生き物である。犬や豚は、悩まない。
それでは人間と動物の存在を根本的に分け隔てる
この悩むという行為の本質とは、一体何であろうか。
人間は言葉を有するから悩むのか。
動物に比べて高等な脳と知性を持つから、悩むのか。
そうではないと思う。動物に欠落していているが、
人間には身の回りに常にまとわりついて
決して無視したり、意識から拭い去れない概念が
悩みの原因となっている。
それは何だと思う。
時間だよ。時間への感覚だ。
より正確に言えば、時間の感覚を媒介として、
自我意識が相対的に不安定に陥ることについての
心理的な危機感と葛藤。分かりやすく言えば
自分という存在が、生命の時間に対峙するところの
不安と恐れ。ああ、それが、人間の悩みの本性なのだ。
自我の一体感や連続性は、時間の流れとともにある。
自我と時間への意識が不調和になった状態が
悩んでいる、ということなのだ。
だから時間の意識がないところに悩みはない。
何かに無我夢中になって、時を忘れた心理状態には、
悩みが侵入し得る余地はないということだ。
よって時間の意識どころか、時間そのものが存在しない
あの世には、悩みがない世界であるとも言える。
悩みのない、あの世は天国である。
いや、そうとも言い切れない。
悩みはなくとも、地獄はあるかも知れないからだ。
あの世に地獄があるかどうかは、悩みの有無とは別の問題である。
いや、私はそんな話しをしているのではなかった。
動物との差異を決定付ける
生きている人間にとっての悩みについて論じているのであった。
つまりは、私が言いたいことは、こういうことなのだ。
それは、一口に人生と言っても、
人生を輪切りにして、その各断面を測定、比較すれば
人の時間に対する意識の比重は均一ではなく
異なっていて当然であるということだ。
赤ん坊の時や自我意識が完成されていない
10代前半では、時間の重みも感じられないから
悩みも発生しないのであるが、10代後半から20代後半、
あるいは人によっては30代前半にかけては
時間の重力が、あたかも深海魚にとっての水圧のように
たとえ意識はされなくとも、確実に精神に被さってくるがゆえに
人は悩むように出来ているということなのだ。
特に思考力や感性の優れた人間には、その傾向は顕著であることであろう。
何がきっかけとなって、何に悩むかは
人それぞれであろうが、悩むと言うことの本質とは無関係である。
その一方で精神性のない馬鹿や
何者かに洗脳されるだけの下等な人間には
悩みがないということも一つの真理である。
つまりある時期に人が大いに悩むことは
人生における必然であるということと
決して他者よりも劣っているからではなく
むしろその反対である場合の方が多いということだ。
釈迦もイエス・キリストも悩み抜いたからこそ偉大なのであった。
我々名もない普通の人間にとっても、その原理は同じである。
でも現代人が、特に日本人が注意しなければならないことは
教育や社会全体が、悩まない(考えない)
本質的にお馬鹿な人間を大量に生産しようと目論んでいるということだ。
なぜなら、とことん悩み抜く力を持った人間は
社会にとっては常に、脅威であり、危険であるからだ。
釈迦や、イエス・キリストのようにである。
それゆえにこそ、悩む人間は
不幸な劣等人種であるかのようなコマーシャリズム
世間の幅を利かせているのである。
実態はその反対であるにも関わらずだ。
若者よ、大いに悩め。また、とことん悩んで、行き詰ったからといって
一時的な自己完結の思想で、死を選んだりしてはいけない。
悩む行為は、結局はある時期における
時間の重力による精神への影響の産物でしかないのだ。
通過儀礼であるとも言える。
私のように、一定の年齢に達すれば
悲しいかな、少なくとも自分自身のことについては
悩もうにも、悩むということが非常に難しくなる。
これは決して何らかの力や知恵を得たからではなくて、
人生の折り返し点を越えて
死がおぼろげにでも意識されるようになってくると
時間の重力という触媒がないがゆえに
もう「物理的に」悩むことが出来ないのである。
だからこそ悩める時期に、とことん悩んで精神を鍛えておかなければならない。
わかるか。理解してもらえないかも知れないが、そういうことなのだ。