龍のひげ’s blog

子供たちの未来のために日本を変革する

分かると分からないの境界

前回の続きである。最初に訂正させていただくが、華原朋美さんの初恋相手の下の名前は、「ヒトシ」ではなく、「サトシ」であったことが、27日の放送内容をユーチューブの動画で再確認してわかった。私の記憶違いのようである。私もさほど真剣に見ていたわけではなかったのであるが、私の当初の記憶では、トニーというマインドハッカーは、画用紙にカタカナで「ヒトシ」と書いたはずなのだが、ユーチューブの動画で見直すと、ひらがなで「さとし」と書いている。TV局が何らかの理由で、その部分を2回録りして、エリアによって「ヒトシ」と「さとし」に分けて放送したのではないかとも考えたが、その前後の部分を見ても、どうもそうではないようだ。しかし何れにしても、私は前回の記事に記した通り、「ヒトシ」か「サトシ」のどちらかだと思ったことは、紛れもない事実なのである。どうして私は、分かったのだろうか。分かったというべきか、単に当たったというべきなのかは、自分でも判然としないのであるが。ただこれは、一つの現象として非常に興味深いと思われるので、一般的にはどうでもいいことであるが、私はそのTV番組を見終わった後も、一人でつらつらと考え続けたのであった。先ず私の記事を読んでくれている人々に対して、誤解があってはいけないので断っておかなければならないことは、私には超能力とか予知能力、霊能力などの類の神秘的な能力は一切、持ち合わせていないし、これまでの人生でそのようなものを欲しいと思ったこともない。但し、私は日常生活の中で不思議とした偶然の一致(ユング共時性)に遭遇することは多くあり、それらを通じて、或いはそれらとまったく無関係に、ある種の気付きというのか、おぼろげに何かが分かると言う感覚はある。それは私が考えるに、性質的には禅的なものであって、いわゆる超能力などとはまったく異質なものであるが、外観だけ見ていると混同される危険性があるものである。今回、私が華原さんの初恋相手の名前がわかったのも、自己内観によれば何かしら禅的な気付きに近いものの、ある種の「飛躍」によるものであって、字義的に矛盾はあるかも知れないが、精神生活の流れの中における一つの「必然」であるとも言えるものである。念力でスプーンを折り曲げたり、テレパシーでまったく自分とは無関係な人の心を読むと言うこととは、まったく異質なものなのである。それではお前(私)と華原朋美に一体、何のつながりや「必然」があるのかと疑問の声もあるかと思われるが、それは私の解釈ではこういうことなのである。笑われるかも知れないが、一応、述べておくことにしよう。これから書くことは私の単なる想像上の事なので、その内容について一々、否定されたり抗議されても困るものである。確かに私は個人的には華原さんに会ったこともないし、近くで見掛けたことすらない。しかしそれでも禅的に何かしら分かる、いや実際には何も分かってはいないけれど分かったような気になるという感覚は、物理的な接触とは無関係に存在すると思う。たとえば華原さんと言えば、昨年末ごろから熱愛騒動が、ゴシップ記事を賑わした。私は本当は、人様の特に芸能人の恋愛事情について面白おかしく意見するような、はしたない真似はしたくはないのだけれど、話しの展開上、敢えて言及させていただくことにする。華原さんの竹田恒泰氏との熱愛が報道された当初から、私は特に関心を持って見ていた訳でもないが、内心、何かしらの不自然さと言うか、はっきり言ってあり得ないパターンだな、とは思っていた。華原さんが竹田氏を恋愛の対象として見ていないであろうことは、マスコミがどのようにはやし立てようとも何かしら伝わってくるものがあった。別に私にとってはどうでもよいことではあるが、華原朋美は依然として小室哲哉氏のことが好きなのであろうし、竹田氏との熱愛騒動を彼女が、言葉は悪いが、その状況を利用していたのであろうとは、何となく私には昨年の話題に上がった当初から分かっていたものである。よって年が明けてしばらくすれば、恐らくこのような結末が示されるであろうことは個人的には予想していた。といっても何も私は自分の洞察力の確かさを自慢しているのではなくて、私以外にも多くの人が口には出さなくとも内心はそう思っていたのだと考える。そういうことは何となく分かるものである。但し私は、華原さんについて一部では計算高いとか、したたかだという声もあるようだが、個人的にはあまり悪い印象はない。確かにしたたかではあるのだろうが、そこに悪気はないと思う。また彼女には何かしら命懸けのところも感じられるので、適切な言葉かどうかはわからないが、仕方ないという気もするのである。私の目には、華原朋美という女性はとても純粋なのである。純粋であって、尚且つ、情念がとても強いと思う。こういうことを言うと怒られるかも知れないが、心が純粋で情念が強い女性は、不幸に嵌まりやすいタイプなのではなかろうか。独断で言えば、いわゆる不幸系の女である。でも私は彼女が歌う「夢やぶれて」を動画を見てとても感動した。何度も繰り返して見たものであった。彼女は自らの苦悩を通して、本当に自分に合った表現に辿りついたのではないかと私は思ったものである。華原さんのように元々、情念が強いタイプの人は、「夢やぶれて」のようにソウルフルで落ち着いた感じの曲の方が、小室氏の作るような中身があるのかないのかよくわからないキャピキャピ、キンキンした曲よりもよほど似合っているのではなかろうか、と私は思う。ついでに言えば、竹田恒泰氏は私はどういう人なのかよくは知らないのだけれど、直観的に感ずるところでは、恐らく、華原さんの持つ純粋さとか情念の強さのようなものに深く魅かれる精神的な傾向というか、趣味、指向性を持っているのではないかという気がする。しかし、そういうことは竹田氏にとっては学術的な追及や研究の対象に留めるべきであって、そういう資質の女性を自らのパートナーにしようとしたことは明らかな選択ミスであったと思う。傍目に見れば、どう考えても合ってはいないのである。まあ人生とは、選択ミスの連続みたいなものだから、私もあまり人様のことを偉そうには言えないのだけれど。とにかく、そのような華原さんについての一連の情報に対する私なりの感想とか思考などの蓄積や認識の経緯が意識の土台にあって、ある時ふとTV番組を見ていて華原さんの初恋の人の名前が、ふわりとした感じで、「ヒトシ」か「サトシ」のどちらかだと分かってしまうということは、その番組がたとえヤラセであったとしても、私にとっては超能力とか霊能力などとはまったく異質な、一つの必然であるという気がしてならないということなのである。目には見えない情報回路に知らぬ間につながっているとでも言おうか。何かが何となく分かるということは、その対象について実は何も知らないのだという認識の謙虚さがベースになって研ぎ澄まされてくる感覚だと思う。だから分かるということと分からないということは表裏一体の関係性であることが健全なのであって、分かるということが過信や思い込みになったり、神秘的な超能力や霊能力の領域に転ずると危険なのである。何かが何となくわかるという感覚、能力こそが実は人間にとってもっとも根源的に備わったものであるという気が私にはする。そしてその感覚、能力は決して特殊能力ではなくて、本来は万人に備わっているもののはずなのである。そしてその認識は、それらの発現、開花を妨げているのは一体、何だろうかと言う問題意識にも結び付くものである。次回に続く。