龍のひげ’s blog

子供たちの未来のために日本を変革する

W杯観戦記 3

4年に1度のワールドカップの時期になると、私は自分が中学生ぐらいの時に体育の授業や遊びでサッカーをしていた事を何気に思い出す。私は部活などで本格的にサッカーをやった経験がないので、日本代表がいかに不甲斐ない試合をしているからと言って、専門家のように詳しく解説したり、批判することはできない。それに日本のたくさんのサッカー少年の中から、才能のあるごく一部の人間がプロになって、そのプロの中からまた選り抜かれた選手が日本代表となり、ワールドカップの出場を果たす。これは大変なことである。今、日本代表として戦っている選手たちは、サッカーの世界では、言わばエリート中のエリートであって、本来、私のような素人が偉そうに、ああだこうだと批評できるような対象ではないのである。それはよくわかっているが、それでも私は、ああだこうだと言わせていただくことにする。スポーツの観戦とはそういうものであるし、また素人の素朴な感想の方が、専門家の解説より、事の本質を突いていることも少なくはないと思うからだ。ということで、私の草サッカーの経験で言えば、サッカーとは実は、ボールを持っている人間が一番、楽なスポーツなのである。ボールに触れていないのに、ボールを追いかけて、グラウンドを走り回ることは、気分的に虚しいし、肉体的にもとても疲れるのである。それで私の場合には、たまにボールが回ってくると、その充実した貴重な時間を手放したくないために、少しでも引き伸ばそうとして、その辺りを無意味にちょこまかと、犬の散歩みたいにドリブルして見せて、周りから「何してんねん。はよ回せ。」などと怒鳴られたものであった。今の日本代表のプレイスタイルを、私の少年時代のレベルと同じだとまでは言わないが、同じ日本人だからなのかどうかわからないが、似ているところもあると思える。どういうことかと言えば、概して言えば、日本選手はボール離れが悪いのである。私のようにボールを持って、怠けていることはないのであろうが、ボールを持ってから周りを見渡して状況を把握していることが、見て取れる。しかし草サッカーではなく、世界のレベルでは、ボールを持ってからでは遅いのである。ボールを持つ前に頭の中にイメージが出来ていないといけないと思う。もちろんボールを持ってから、パスを出す最適のタイミングを待つ、タメの時間は必要ではあろう。しかし私が見ている分には、日本代表のサッカーはタメのための保有であるより、ボールを持って束の間、呼吸を整えているように見えてしまうものである。つまり瞬間的に、休憩しているということだ。極端に言えば、これでは私の素人サッカーと五十歩百歩であるとも言えるであろう。サッカーにおいてボールの保有は、単独で勇猛果敢にゴールに向かって突き進む以外の時には、恋人との逢瀬のように別れ(離れ)を惜しんではいけない。ボールは、護符のように肌身離さず持つものではなく、導火線に火のついた爆弾のように考えるべきだと思う。パスを出すタイミングがコンマ何秒、遅れるかどうかで決定的なシーンが作れるかどうかが決まるのである。ボールを持ってから考えていたのでは、遅いのだ。その点、外国の強豪国同士の試合を見ていると、ボール回しがとてつもなく素早いし、選手たちの走る速度も速い。日本のサッカーとは、同じスポーツであるとは思えない程の差が歴然とある。また関連して言えば、日本のボール回しは、楽譜に例えると、タンタンタン、タンタンタン、のようなワンテンポの4分の3拍子なのである。それがたまに、タンタンタタ、タンタタタンになったりする程度である。そして1拍子のタンごとにブレス(息継ぎ、休憩)が入っている。そのようなワンパターンのリズムだと、相手側の守備陣もそのリズムに合わせて守っていればよいのだから、非常に守りやすいということになる。流れが読み易いし、対応し易いのである。これがドイツやスイスや、フランスなどの強豪国同士の試合になると、タンタンタンのような長閑な曲調ではなくて、タンタン、タタタタタタ、タン、タタタタタタ、タンという風に、拍子ではなくて連打のビートなのである。どこにもブレスは入っていない。つまり全体的な運動量と速度が日本とはまるで異なるということである。あくまで私の素人の見方であるが、今回のWCを観戦している限り、日本のサッカーは戦術云々以前に、はっきり言って、世界の強豪国と戦う体力とスピードに達していないということではないかと思うのだが。