龍のひげ’s blog

子供たちの未来のために日本を変革する

歩け、メッシ。

もうサッカーの話はよいのだが、それ以外に言わなければならないことが、私にはたくさんあるのだが、そういうことは本当に気が重いことばかりなので、記述する上での躊躇があり、引っ込み勝ちであるが、その点、サッカーの話題なら気が楽だ。W杯は、アルゼンチンとドイツの決勝を迎えることとなった。アルゼンチンの試合を見ていて印象に残るのは、メッシがほとんど歩いていることである。ボールが自分に回ってきそうな状況になると、そろりという感じで動き出す。それまでは周りの状況を首を回して確認しているだけで、歩いている姿は、まるで試合とは部外者の人間が散歩しているような趣もある。私はその光景を見ていて、まるで草原でライオンが獲物の動物を見つけるために身を潜めているような動きだと感じた。そしてメッシのその動きは、個の才能と組織の利益というものの関係性を、如実に示しているようにも思われる。他の選手たちが、疲労困憊で足が攣りそうになりながら走っている中で、悠然と歩いているメッシは、一見すると怠けているようにも見える。しかしメッシに期待されている役割は、ライオンが獲物を狩るように、点を取ることであって、それは攻撃のチャンスが到来した時に、1秒でも1歩でも速く相手側のディフェンダーを突破したり、ドリブルで抜き去って、そのチャンスを決定的なものに変えるということである。よってそのような好機以外の時には、不必要に体力を消耗させたり、本来の役割以外の激しいディフェンスで怪我でもする可能性を考慮すれば、組織全体にとってはリスクが大きいという以上に、マイナス以外の何物でもないということになる。野生のライオンでも、最初の一歩が出遅れたり、最高のスピードで走れなかったり、怪我をしていれば獲物は狩れない。そうするとその餌を頼りに待っている仔ライオンや仲間たちは、飢え死にすることを意味する。それと同じである。もちろんサッカーにおいては、その個の才能の大きさと組織の戦術にも関わることなので、一概には言えないが、大雑把に言えば、そういうことになるのであろうと思う。そして、今回のW杯においては、そのように悠然と歩くメッシを擁しているアルゼンチンが決勝に進出したということは、象徴的である。特化した才能の持ち主は、平等主義的に他の平凡な人間たちと同様の動きをしていても、決して組織や全体のプラスにはならないということである。これはサッカーを離れて、企業のサラリーマンなどでも同じではなかろうか。瞬発的に多大の利益や価値を生み出す才能を有している持ち主は、下らない人間関係だとか、慣例的な行事、あるいはあらゆる生産性の低い作業から離れて、試合中に悠然と歩くメッシのように、ぼんやり考え事でもしたり、昼寝でもしている方が、いざという時により力を発揮できるものである。しかし一見、傲慢でわがままとも見えるそのような天才的な個の才能のあり方も、アルゼンチンのディフェンス能力の高さにも見える通り、組織全体の秩序だった統制能力の高さによって生かされるものである。つまりアルゼンチンのディフェンスが弱ければ、メッシは歩けずに、つまりいざという時に最高のスピードが出せず、得点を取れずに敗北するということである。攻撃と防御は一体であり、天才は凡人たちの強固な秩序によってこそ、最高の価値を発揮し得るということである。そしてそのような土壌の中でこそ、本物の天才は生まれ、組織の中で育まれていくのであろう。これは社会全体についても言えることであると思う。民主主義的な変な平等意識だけに支えられた社会は、危機を突破できずに、ある時点から急激に衰退してゆくものである。歩け、メッシ。私も悠然と歩くメッシのような表現者になりたいものである。しかし私の場合は、歩くだけで疲れ果てて、今にも行き倒れそうである。誰かから言われる前に、自分で言っておく。