龍のひげ’s blog

子供たちの未来のために日本を変革する

素人のサッカー理論

鬱陶しい話は避けて、また私的なサッカー論である。とは言っても、私は専門家でも経験者でもないから、戦術的なことはわからない。わからないけれど、わからないなりに、わかることはある。人生においても、そういうことが、本質的に重要な事柄となるのではなかろうか。専門家の予想など、株価の分析と同じで必ず外れるものである。それで今回は、個の能力の数値化と組織力について、独自の理論を述べさせていただく。あなたや私の人生に役立つかどうかは、別にせよ。サッカーは言うまでもなく、11人の集団プレイである。その個々の能力を、10点満点の「相対評価」で採点して、11人分合計すれば、どうなるであろうか。現在の世界での最高水準の能力が、満点評価なのだから、アルゼンチンのメッシや、ブラジルのネイマールや、オランダのロッベンは、10点ということになる。細かな選手評定は、私の手に負えることではないし、これから述べる理論と関係ないので、分りやすく便宜的に数値化すると、たとえばアルゼンチンで、メッシが10点満点で残りの10人全員が6点だとすると、合計は10+10×6=70点となる。ここでアルゼンチンと対戦するどこかのチームBが仮に、11人全員7点の能力だとすれば、Bの能力合計は77点なので、監督の采配や、運などの要素を除けば、Bの方がゲーム理論的にはアルゼンチンに勝つ可能性は、高くなるのであろうか、ということである。私の考えでは、恐らくはそうはならないであろう。なぜならサッカーは、点を取らなければ勝てないスポーツである。もちろん、だからと言って、得点能力の高い方が、必ず勝つということにはならないが、ディフェンスの役割は、相手の攻撃に得点を許さないことと、防御から攻撃に転じる変化を促せることである。サッカーは野球のように、攻撃と守りが分断されているスポーツではなく、攻防が一つの均衡状態の中で一体となっているところに最大の特徴がある。これは集団と個人の違いはあるが、ボクシングとも似ていると言える。相対する一つの均衡状態がベースになっていて、シュートで得点を決めたり、パンチでKOするチャンスは、その均衡が揺らいで「隙間」が生じる数少ない場面でしか有り得ないのである。私が、サッカーもボクシングも見るのが好きであるのは、そういう共通点によるものであると思える。ボクシングの試合においても、劣勢の選手のセコンドが、盛んにもっと攻めろ、手を出せと声を嗄らして叫んでいるが、防御の固い選手やレベルが格上の相手に対して、攻めろと言われても攻めれるものではないのである。闇雲にパンチを振り回して、偶然に当たるようなものではない。単に体力が消耗するだけのことである。もちろん、そうは言っても手を出さなければ、勝てる可能性もないことは事実であるから、そのような指示になるのであるが。サッカーも同じで、闇雲に強引に攻めても、ファールになるだけのことで、得点には結びつかない。ここにおいて「戦術」の必要性というものがあるのだと考えられる。元に戻って、メッシが10点満点で、他の10人全員が6点、合計70点のようなチームの戦術は、自ずと傑出した得点能力のメッシを最大限に生かせるような性質のものとなる。守備も攻撃も、メッシの能力の質を考慮して、あくまでもメッシを中心に機能するような攻撃型の布陣となる。それに対して、11人全員が7点で合計が77点のBチームは、総合力では7点上回っていても、アルゼンチンと同じような攻撃型の布陣で戦えば、一般的には負ける可能性が高くなると考えられるから、コスタリカのように守り中心で、数少ないカウンター攻撃で得点チャンスを作る戦法となる。これがサッカーの戦術の基本型で、大きく分ければ得点能力の高い選手を生かす攻撃型と、堅固な守備からカウンター攻撃に転ずる2種類しかないものと考えられる。翻って日本を見れば、結果論かも知れないが、これといって中心となる傑出した得点能力の持ち主もいていないし、何点とも言わないが、まあ均一的な能力レベルの選手から構成されているものであった。よって本来は、少しでもW杯で勝ち進む可能性を高めるためには、攻撃よりも守備に重点を置く戦術を取るべきであったのではないのか。別に私は、今更、批判するつもりはないが、日本は、組織プレイでありつつ攻撃型のサッカーであることをも標榜するものであって、それは素人の私の認識不足かも知れないが、根本的に矛盾するものであったのではないのか。恐らくは守備型のサッカーなどと公言すれば、消極的なようでマスコミ受けも悪いし、スポンサーもつき難いという商業主義的な要因も大きかったのではないのか。そうだとすれば、その誘因が、何よりも現在の日本サッカーのレベルを正確に示しているものと言えよう。選手たちが口癖のように言っていた、「自分たちのサッカー」だとか、「自分たちが理想とするサッカー」などの信条もW杯レベルで見れば通用するどころか、恥ずかしいものであったように思える。日本のことはともかくも、相対評価で10点満点の攻撃能力を擁するアルゼンチンやブラジルのような国の欠点は、その中心選手が何らかの理由で欠場した時に、それまでの戦術を急きょ、変更することが難しいところにあると考えられる。ネイマールを失ったブラジルの大敗が正にそうであり、10点のネイマールの代わりに、7点の誰かが入っても、チームの総合力とすれば3点だけの減少ではなくて、戦術の核となる中心を失ったということからプラス10点、ディフェンスの中心であるシウバも欠場となってプラス7点、トータルで20点ぐらいの戦力低下となっていたのではなかろうか。そうであればドイツに7点入れられて負けても当然である。しかし、そこにおいてもブラジルは必ずしも不運であったとばかりも言えないと思う。主力選手の怪我や欠場ということのリスク管理があったのかという問題である。ネイマールは能力的には世界のトップであっても、身体の丈夫さという点から見れば、見た感じでは少し線が細いというか、少なくともオランダのロッベンほどの強靭さはないように見える。ロッベンであれば、あの膝蹴りを食らっていても骨折はしていないかも知れない。またロッベンは、ドリブルで攻撃に移る人間離れしたスピードも然ることながら、あの派手に倒れる技術がある。歩幅が大きいから倒れ方が目立つのかも知れないが、あの倒れ方は単に、ファールを狙うというだけでなく、自身が怪我をするリスクを減らしている目的も兼ねているように私には見えたものであった。柔道の受身みたいなものである。メッシに至っては、前回にも述べたようにボールが回ってくる状況までは歩いてばかりで、怪我をするような可能性は全くないことはないが、極めて低い。メッシを見ていると、監督の指示なのかも知れないが、とてもクレバーだという印象を受ける。自分に求められている枠割をよく理解していて、それ以外の余計な体力の消耗や怪我のリスクを意識的に避けている。自分の才能の活かし方をよく知っているのである。才能とはオン(作動)とオフ(休息)の制御によって、最大化させ得ることがわかっているような面構えをしている。そしてメッシは怪我もせずに、4得点を上げてアルゼンチンは決勝に進出した。やはりW杯で勝ち進むには、才能や技術だけでなく、総合的な知性も要求されるということなのであろう。日本も原点に戻って、勝つための本物の知性を獲得しなければ、明日はない。