龍のひげ’s blog

子供たちの未来のために日本を変革する

魂の社会学

たとえば、神学とは何の関係もないが、まんだらけの万引きの事件を題材として、考察するとこういうことになる。犯人の顔写真の公開について、結局、期限の直前に中止となったが、警察から止めるように要請されて、押し通せるものではない。そんなことをしても警察の心証を害するだけのことであり、まんだらけの総合的な利益となるものではないから、実際的には当然の賢明な判断であったと言える。しかし、それではその警察の中止要請には、果たしてどの程度の正当性があったかと言うと、疑問の余地は小さくない。警察は、捜査の支障になるなどと紋切り型で最小限の説明をしていたが、誰が考えても、犯人の顔写真の公開は、捜査の手助けとなることはあっても支障となるものではあり得ない。ではなぜ警察は反対したのかと言えば、言うまでもないことであるが、まんだらけが犯人の写真を公開したことによって、誰かの通報で逮捕されたり、あるいは犯人が自主的に名乗り出てくることになったとしても、警察にとっては、何の手柄にもならないからである。手柄にならないどころか、警察は面子を潰されたと考えるかも知れない。なぜなら一旦、被害届が提出されてしまえば、実際に捜査がなされるかどうかも含めて、その捜査内容は警察の権限で決定されることであり、誘拐や殺人事件ならともかく、万引き程度の事で被害者が犯人を心理的に追い詰めて、事件を勝手に解決してしまうような事態は、警察的にはおそらく迷惑ということになるのだと思われる。よって一つの方法とすれば、まんだらけは今回の件に関して見れば、警察に被害届を最後まで出すべきではなかったのではなかろうか。そうすれば警察から顔写真の公開を止めろなどと言われる筋合いもないことであるし、そもそも警察も被害届が出されたからと言って万引き事件を本気で捜査するとは考え難いことである。敢えて犯人側の立場に立って考えても、全国的に顔写真が公開されて、その上、警察に捕まるのであれば、ちょっとやり過ぎだと言えないこともない。しかし警察を関与させずに、つまり刑事事件としてではなくあくまでも当事者間の問題として、名乗り出て商品を返さないのであれば顔写真を公開するという手段は、私は個人的には決してやり過ぎではないし、店側とすれば正当な万引き抑止と解決の手段であると考えるものである。それに対して名誉棄損であるとか脅迫であると主張できるのは、公開された顔写真の当事者だけであり、第三者がどうのこうのと言う問題ではないと私は思う。しかし今回の件を見れば、警察だけでなく一部のマスコミも法律上の一見解として、顔写真の公開は脅迫行為に当たるなどとして警告を発していた。これをどう考えるかと言えば、新聞やTVなどのマスコミは事件の報道に際して、犯人の氏名や顔写真を公表するかどうかという事で、社会に対して重要な影響力を保持しているものであり、つまりその判断、決定が特有の既得権となっているものである。よってまんだらけのような報道に携わる者ではない一民間業者が、万引き被害に遭っているとは言え、インターネット上で犯人の顔写真を公開し、大きな注目を浴びることは、マスコミ的にはマスコミの権威と既得権を侵害されているようで、面白くないという心理は確かにあるのだと思う。だから脅迫だ、何だなどと、いやがらせと言えば言い過ぎであろうが、警察と同じように止めさせようとするものである。結局、私が何が言いたいのかと言えば、今回のまんだらけのように、単に被害者であり、その被害を受けた事に対して筋道を通そうとしただけのことであるのに、周りからあれやこれやと非難されて、悪者扱いされることになる状況は、一人の人間が人生を生きてゆく上でも往々にしてあることである。人生において生ずる諸問題は、そういうことの様々な変化、応用である。それらの対応を誤ると、時として取り返しのつかないような大きな痛手を負う危険性もあるものであって、それが正に私が言うところの魂と社会の問題であるということなのである。人ごとであれば何とでも言えるが、いざ自分のこととなると中々難しい判断を迫られることが多い。結局は自分で決める以外にないものであるが、社会というものの基本的な仕組みとか反応の仕方を正しく理解しないで、表層的な善悪の観念だけで物事を理解しようとしていると、魂は抑圧される一方であり、人間は自分が魂を持った生き物であることをすら分からなくなり、ついにはパゾロフの犬のように、ただ機械的に反射するだけの存在に成り下がってしまう。そこから人間が人間らしい魂を回復させるには一体、どうすればよいのかという課題が我々の目前には、そして人生には常に立ちはだかっているのである。社会の本質が理解できなければ魂の問題が考えられないということはそういうことである。そして人間が一個の魂の在り方を、社会を通して、社会との摩擦の中で追及していくその一歩先には、神の確かな存在性が何万光年も離れた恒星からの光のように、静かに闇を照らしている。しかしそこに答えはない。永遠の問いかけがあるだけだ。そして、問いかけ続ける姿勢こそが、魂の正体であり、また道でもある。