龍のひげ’s blog

子供たちの未来のために日本を変革する

憂鬱なる神学 4

さて、それでだ。神を思念すると言っても、神とは人知を超えた存在であり、考え続けたからと言って、一体何がわかるのだろうかという疑問もあることであろう。確かにその通りなのであるが、しかしそれでも考え続けることに意義があるのである。以前に、権威に頼らず、自分の頭で考え続けることの大切さについて、私は何かの記事に「わからなくとも、わからないなりに、何かしらわかる部分があれば、そのわかることが人生において重要な意味を持つ」と述べたが、それは正に、神についての思念について当て嵌ることなのである。神という存在の全体像を把握することなど人間には到底、不可能である。しかし、神が全ての生命やこの広大無辺なる世界を創造し、宇宙全体に遍く行き渡る真理を司る存在者であるとすれば、神という全体のほんのひとかけらの、そのまた何百万分の一の真理を人間が思考によって会得することが出来れば、その微小なる了解が、一個の人間の人生を大きく変化させる力を持つものであることは、容易に理解できることであろう。それではどのように思念するかということであるが、神を自分という人間から切り離して一般化させることには意味はない。自分の人生を通じて、自らの魂を媒介として神を対象化させ、思念し続けるからこそ、ブレイクスルーするように突破して何かが得られるのである。そう言う意味で、単に漠然と神を考えるのではなく、神と自分との関係性を考えるということが重要な意味を持つ。また個的な関係性という足掛かりの視点がなければ、現実的に神を深く思考することは不可能だと思われる。神との関係性とは、わかりやすく言えば、要するに自分が今、どのような境遇と心理状態にあるかと言うことである。人間は、一般的には幸福感に満たされている時には神に感謝することはあっても、神との関係性を哲学的に深く追求するようなことはしないものである。よって神とは人間にとって、確か哲学者のニーチェも言っていたことと思うが、愛や幸福を通じてよりも、苦悩や孤独と言う、ほの暗い道を歩く方が目的地に到達する上で、近道であると言えるものである。つまり人生の一時期の、魂が苦悩や孤独の境涯の状態にある時に、徹底的に神の存在性と、神との関係性についてただ一人思念し続けることは、私は宗教に入信して、救いを求めることなどより、はるかに意義と価値があると考えるものである。しかしそこには当然、危険性もある。人生全体を俯瞰すれば、たとえ近道であったとしても、暗い道を道標もなくただ一人で黙然と歩き続けていると、魂が魔境に陥って、文字通り道を踏み外すこともある。社会との相対的な位置づけによる安定感や、心理的な紐帯を喪失して、独善的に反社会的な行為に暴走するようなケースが時として見られる。当時、中学2年生の少年が引き起こした犯罪である、いわゆる「酒鬼薔薇事件」がその典型的な例だと思われる。その少年は非常に頭が良くて、自分で物事を考える力があるだけに、道を踏み外して、変な方向に走ってしまった。社会とは、私が何度もいろいろな記事で主張している通りに、マスコミの報道や宗教団体の有り方をも含めて本質的には、偽善以外の何物でもないものである。そこには多少の嫌味も込めて言えば、神に通ずるような真理など何一つなく、あるのは人間を操作する誘導と洗脳の手法だけである。しかしそれでも尚、社会とはあらゆる意味において、一人の人間が生きていく上での基盤である。基盤であるからには、魂の有り様にも当然、関わってくることとなる。つまりその社会という基盤を度外視したり、敵対視して独尊的に神を追求しても、本当の意味では神という真理に近づくことにはならない。なぜなら語弊はあるかも知れないが、社会の偽善や欺瞞の中においてさえも、神の存在性は生きているからである。神の真理とは、決して偏在するものではなく、空気や水のように世界の隅々にまで及んでいる。よって求道者のように神と自分の関係性を追求するには、人里離れた山奥に篭ることも一つの方法であろうが、そうでなければこの社会の中で、我々人間一人ひとりの魂の有り様の基盤であり、また大きな影響を与えているところの偽善や欺瞞の層もしっかりと見つめて、その相対的な連関の中で、自分という存在の苦悩や不幸を思考しなければ、結局はどこにも行き着かないものである。また社会という土台を基礎に据えて、神を思考し続けるからこそ、個的にブレイクスルーすることが可能となるものである。宗教を排除して、神との関係性を個的に育むためには、実は社会学的な視点が不可欠であると言える。生ける人間の魂とはそれ自体で性質が発現するものではなく、社会という即物的な媒介を常に必要としている。社会の本質が理解できなければ、魂の問題や神の存在性についても永遠に理解できないものである。厳しい言い方かも知れないが、政治や報道のごまかしが見抜けないような人間が、神について考えてもその本質に迫れる訳がないものである。現世という処の法律や習慣、価値観や規範、そう言った様々なものに魂は常に影響を受け、不遇の魂は苦悩や不幸を味わなければならないこととなるが、単に社会の体制に従順であったり、或いは反抗的であるというだけでは、魂が救われることはない。我々が日常を暮らしている社会というものをしっかりと見つめて洞察し、その社会感を土台にして、個的に神との関係性を追求していく姿勢が肝要であると言えるものである。社会との連関の中から魂や霊的な問題について、自分なりにしっかりと考えられない未熟な精神においてこそ、酒鬼薔薇事件やオウム真理教のようなカルト宗教に利用される危険性の芽が潜んでいると言えるのだ。私が様々な社会批判や分析を述べたり、神について語ったりすることはそういう基本的な認識の中で結びついているものであり、決して分裂しているものではない。神とは本当は非常に身近な問題なのである。次回に続く。