龍のひげ’s blog

子供たちの未来のために日本を変革する

桜の不幸

日々忙しくばたばたと過ごしていると、桜も知らない間に咲いて、知らない内に散ってしまっている。考えて見れば花見などもう10年以上もしていない。そういう風雅とは無関係に私の日常の時間は流れ去っていく。寂しいことである。桜だけでなく、もうしばらくすれば燃え立つ瑞々しさで街角を赤く染めるように咲く躑躅の花も、曇天の梅雨空と対をなすように地表の一画を青空色に明るく覆う紫陽花の美しさも私はゆっくりと味わう時間を持てないであろう。せいぜい横目でちらっと見遣る程度である。それでも天気のよい暖かい春の日に、車を運転していてぼんやりと風景を眺めていると、ふいに何か世界の背後に秘められている真理を感得したような気分に陥ることがある。どういう真理か具体的に言葉で説明することは難しいのだが、敢えて言えば、この世のすべては、道行く子供たちの無邪気なしぐさであるとか、幸せそうに語らい合う恋人たちの表情や、ぽつねんと佇んでいる老人の姿も含め、人間だけでなく桜の花も、道路や建物などの人工的に作られた建造物までも目に見える世界の万物は、その隅々が神性の現れであって、この世に神性と無縁に存在しているものはあり得ないという啓示とでも言うか、ともかくそのような一瞬にして永遠に通ずる感覚に陶然となる。その瞬間に私は内側から満たされて、言い様のないような幸福感を感じ、何かしら無敵の存在になったかの気分になる。無敵と言っても強くなるとかという意味ではなくて、万物の神性を感得している間は、あらゆる種類の災厄や苦悩は、私と言う個別の存在性を捉えることは不可能であろうという安心である。そしてその瞬間にわかることは、不幸とは神が試練として人間に与えているものではなくて、人間自身が不幸と言う概念を歴史の中で文明と共に作り上げてきたのであろうということである。おそらくは神ではなくて人間が不幸を必要としているのである。さらに言えば、不幸と言う概念の本質は、人間が人間を含めた万物の神性を否定することによって奴隷のように、営々と築き上げてきた社会システムに付随する物質主義的な副産物とでも言うか、生の相対的かつ心理的な距離感であると言えるような気がする。よって文明が進歩して、社会システムが精緻になればなるほどその内側で生きる人間の自然でプリミティブな幸福感は、金であるとかセックスなどの快楽主義や権威などによって否定されるか、否定されなくとも暗黙裡に取って代わられていき、そういう類のものとの距離感で人間は相対的に不幸にならなければならないということだ。そういう文脈で見れば、資本主義的な価値観こそが不幸と言う概念を生み出す社会装置であると言えるが、宗教もまた救済という名のもとに不幸を必要とする社会システムの一部なのであろうと思う。一口に宗教と言っても様々であるので一概には言えないが、私のようにぼんやりと風景を見るだけでそこに万物の神聖さを感得するような志向性なり感覚は一見、宗教的であるようにも見られるが、実は宗教との親和性が低い。宗教というものは、もっと形式的で権威主義的で不自由なものである。私のように何の修行も努力もせずに、また社会的な地位や影響力もない人間が神の遍在性をいとも簡単に感得してしまえば、宗教と言うものの存在意義や有り難みが損なわれてしまうからである。宗教とは、神の名のもとに人間の精神の自由を束縛するシステムであり、魂のヒエラルキー(階級)によって人間を支配する手段である。よって宗教が異なる宗教や民族の間で激しく対立し、場合によっては戦争を生む要因となることも必然なのであろう。政治も経済も宗教も深層においては全てつながっていて、その共通項とは組織的なシステムの中で人間を一つの鋳型に押し込んで、構成員全体の幻想であるとか虚構性を維持してゆく点にあると考えられる。ただそうは言っても人間は社会的な生き物であるから、社会の制約であるとか社会性を無視して生きていくことはできない。自分という個別の存在性と社会が暗黙に要求するところの見解なり全体意識と、綱渡りのように微妙なバランスを保ちつつもその二つを明瞭、明晰に分離して取り込まれたり、飲み込まれることのないように細心の注意をして生きて行かなければならない。なぜなら不幸の本質とは、常に自分を包み込みつつも自分が認識し得ない不可視の大きな企みに、取り込まれたり飲み込まれることであると言えるからだ。つまり不幸とは大雑把に言えば、自分と社会との混同、一体化によって生じているのである。桜の花は内的な生理作用によって純粋に咲いているだけであるのに、たくさんの人に鑑賞されるようになるとそこに社会性が生じることとなる。そうすると桜の本然としての美しさや純粋性が、評価や解釈の対象となることによって失われていくこととなる。人が生きるということも同じである。おそらくは不幸の誕生とは、そのメカニズムはそういうところにあるのであろうと考えられる。車の中から咲き誇る桜を一瞥しながら、信号待ちの僅かな間にそういうことを私は考えたのであった。