龍のひげ’s blog

子供たちの未来のために日本を変革する

寺内容疑者と小説『コレクター』のフレデリック

監禁されていた女子中学生が、なぜ2年間もの間、助けを求めなかったのか、逃げ出す機会はいくらでもあったのではないかという疑問に対しては、被害者の女の子が、一体どのような生活をしていたのか、寺内容疑者との接し方や扱われ方など交流の全貌が詳細にわからないと何とも言えない。しかし一つ、言えることは、このような特殊な条件下においてだけでなく中学生ぐらいの子供は、大人の感覚に照らして考えると、何を考えているのかわからないところも多く、意外と居心地が悪くなかったのかも知れない。もちろん危険を冒してまで勇気を振り絞って逃げ出す決断をするという比較においての話しであるが。こう言っては何だが、敢えて非常識なことを言わせてもらえば、子供は親と一緒に生活していてもある意味において、親や学校に監禁ではないが拘束されているようなものである。その拘束から放たれての監禁であるのだから、まあ、さほど我慢できない環境ではなかったという可能性もあるようには感じられる。しかしそうは言っても、この被害者女子はこれからの人生において、誘拐されて2年間も男と一緒に生活させられていたという事実について世間から好奇の目で見られ続けることとなるであろうし、それはとてつもなく大きな心の負担となり、そう簡単にその過去を忘れたり無視できるものではないであろう。当然これから先の恋愛であるとか結婚などにも影響するであろうし、一生拭い去れない重いトラウマになる可能性もある。また2年間の学業の遅れの問題も深刻である。私の息子も同じ年齢であるが、本来であればこの4月から高校生として新しい生活が始まる期待に胸をふくらませている時期であり、本当に許せない犯罪である。被害者の今後の苦難は余りあるものであろうし、非常に気の毒ではあるが、まあ、しかしともかくも無事であったということは不幸中の幸いではあった。
今回の事件の報道に接して、何年も以前に読んだ一冊の小説を思い出した。作者はイギリスの作家でジョン・ファウルズ、著書名は『コレクター』である。知る人ぞ知る、でもほとんどの人は知らないであろう傑作であり、私の読後感においても非常に印象深い作品であった。簡単に内容を紹介すると、25歳の男(フレデリック)が、美術学校に通う20歳の女(ミランダ)を誘拐して、監禁する話である。フレデリックは蝶の採集を趣味とする孤独な青年である。フレデリックが住む家からは、ミランダが通う美術学校が見え、美しいミランダの姿を自宅の窓から見ることがフレデリック日課であった。ある日、フレデリックに大変な幸運が舞い込むこととなる。サッカーくじで、恐らくは現在の日本円にすれば、数千万円に相当する大金が当たったのであった。そこから男の人生は狂い始める。その金で、郊外に地下室のある古い邸宅を購入し、地下室に頑丈な扉と鍵を付ける改装を施し、ミランダを誘拐し監禁する準備を進める。そして美術学校から下校中のミランダを車で追跡し、先回りして待ち受ける。ミランダが傍までやってくるとフレデリックは、怪我をした子犬を拾って、その子犬が車の中にいるなどとミランダの気を引くような巧みな嘘で話しかけ車の中を見るようにおびき寄せ、背後からクロロホルムを沁み込ませた布きれか何かで気を失わせて、車で連れ去ることに成功する。そしてミランダはフレデリックが買った邸宅の地下室で監禁される生活が始まることとなった。私は当初、この小説は誘拐された女性が、誘拐犯の男に好意を持つことになるいわゆるストックホルム症候群をテーマにした内容であろうと興ざめした気持ちで読み進めていたのであったが、そうではなかった。ある意味においてはもっと衝撃的であり、もっとリアリティーが感じられる筋書きである。それも当然の事であって、読後に調べてわかったことだが、ストックホルム症候群という言葉の由来となった銀行強盗事件は1973年に発生したものであるが、この小説『コレクター』は、それより10年前の1963年(私が生まれた年だ。どうでもよいことだが)に発表されているのである。
話しを小説に戻すと、当然のようにミランダは何とかしてその監禁状態から解放されるように様々な策を講ずることとなる。美しいだけでなく利発な知性の持ち主であるミランダは、会話を重ね、心の交流を通じてフレデリックを何とか説得して、このような行為は間違ったものであるということに思い至らせようと懸命に努力をするのである。その特殊な状況下における二人の会話内容や交流の模様が、この小説の醍醐味である。フレデリックがどのようなタイプの男かと言えば、一人の女性を計画的に拉致、監禁するという大胆な犯罪を犯しているにも関わらず、ミランダに寄り添って歩いているだけで思わず赤面してしまうほどに純情であって、ミランダが密かに書いていた日記によれば、「大人しい気違い」ということである。二人がどういう会話を交わしていたかといえば、ミランダは当時のイギリス女性にあっては進歩的とも言える政治思想の持ち主であり、原爆を批判したりもするし、一人の自立した女性としてそういう政治的なことも話しをして、ある種の信頼関係をフレデリックと構築する努力をするのであった。またイギリスは階級社会の国であり、2012年のロンドンオリンピックの時に、日本の報道でも報じられていたが、ロンドンの東側(イーストエンド)は元々貧民階層が多く住むスラム化した治安の悪い地域であり、劇場などの文化施設や商業施設が集中している西側(ウエストエンド)とは歴史的な地域格差が厳然として存在している。それがオリンピックによる競技場の建設で、イーストエンドが再開発され西と東の貧富格差が縮小していく効果が期待されるということであったが、まさにミランダはウエストエンドの出身であり、フレデリックイーストエンドの人間であって、フレデリックミランダに我々は普通に生活していれば決して出会うことのあり得ない人種であるという意味合いのことを述べる場面があって、それに対してミランダは、私はそんなスノッブ(俗物)な人間ではない、住んでいる地域によって人を差別したり偏見を持って見たりはしない、あなたとだってここから解放してくれるのであれば友達として今後とも付き合っていくことはできるし、恋人同士になる可能性だってあるのよと反論するのである。ところがフレデリックも決して馬鹿ではないので、ミランダの言うことを鵜呑みに信用したりはしない。今更、ミランダを解放すれば、警察に通報されて捕まるだけだということはわかっているし、そういうことがわかっていながらもミランダとの間に特殊で微妙な関係性が徐々に形成されていくこととなる。ミランダは物理的な強硬手段も含めてあらゆる方法で脱出を計ろうとするのであるが、果たせずに、ついには食事を地下室に運んできたフレデリックを全裸で迎えることまでする。ところがフレデリックは動揺の気配は見せるものの、誘惑には応じず、そのような娼婦のようなことをする女だとは思っていなかったなどとミランダの人格を否定するようなことを言うのである。何だ、それはという感じであるが、フレデリックにとっては決して身体が目的ではないということである。タイトルの通り、蝶を採集するように女性を監禁して、その行為のみに満足しているのだ。コレクションの蝶を決して傷付けたりはせずに大切に保存するように、ミランダにもまた暴力をふるったりセックスを求めたりもしない。蝶の採集は心理学的には、不能を意味するということを何かで読むか聞いた記憶があるような気がするが、この小説にあってはそういうことではなく、目の前のミランダには一切手を出さないのに、カメラで撮影したミランダの写真を一人でこっそりと見ながらマスターベーションをしたりする。(それもまた広義の不能に分類されるのかも知れないが。)そういう風にフレデリックという男は、どこまでも屈折していて変質的であるが、しかし男という生き物は普遍的にフレデリックのような性質を潜在的に抱え持っているのではないかと思わせてしまうところが、この小説が優れた傑作となっている理由の一つである。しかしまあ、たとえそうであっても普通の男は、私も含めて妄想はしても実際の行為には移さないものであるが。それは男だけでなく、妄想の性質は異なれど女であっても同じであると思われる。現実に逸脱行為を犯してしまう人間と一般人の間には、根本的にはどのような差異があるのであろうか。私にはわからない。ミランダの運命がどうなるのかについては、これから小説『コレクター』を読もうという人もいるかもしれないので、伏せておく。それで私は何の話しをしていたのであろうか。そうだった、寺内容疑者は年齢的にもまた狂気を孕んだように見える目付きにも、どこか小説中のフレデリックに重なって見えてしまうということであった。
全ての人間が心を病んでいて、一部の人間が犯罪者になる。