龍のひげ’s blog

子供たちの未来のために日本を変革する

分断と対立の民主主義

しかしそうは言っても、家の中に政府機関から監視カメラを取り付けられて常時、監視されたり、ジョージ・オーウェルの小説のように大衆が、思考を読み取られて管理されるような社会になってはいけないのは当然のことであり(その方向性に進んで行っているような気もするが)、個人のプライバシーは絶対的に保護されなければならない。また個人のプライベートな空間において、今回の事件のように未成年者の監禁や児童虐待が行われている可能性があるという理由だけで、あたかもナチス警察が匿われているユダヤ人を見つけ出すために民衆の家の中に強制的に立ち入るようなことは、現在の民主政治の下においては許されないことではある。それはその通りなのだが、私が言いたいことは、今の日本は強権政治か民主主義かという歴史的な区分よりも、公と私の分断というか対立意識の弊害が大きくなってきているように感じられるということなのである。卑劣な犯罪から我が身や子供たちを守っていくためには、公と私の協力体制が必要不可欠である。それを、ここからここまでは公の領分で、その先は1ミリたりとも私の領域に踏み込んではいけないとか、警察の捜査着手にあっても画一的で杓子定規な基準にあてはめて、未成年者が行方不明になっていることの危険性が放置されるようなことがあってはならないはずである。しかし現状としてそのような傾向に流れがちな状況は、法治国家としての規則や法律の制約というよりは、公と私の北緯38度線ではないが、国境を跨いで対峙するかのごとき対立意識が大きな足かせになっているような気がしてならないということである。そのような社会意識のもとにおいて、子供たちの安全や命を守っていけるのであろうか。確かに行き過ぎはいけないであろうが、かと言って、四角四面に規則にあてはめて権力を発動させたり、発動させなかったりということでは、臨機応変に事態に対処できないということであり、それでは何のための権力なのか、或いは何のための民主主義かということにはならないであろうか。離婚している私がこのような例えをすることはどうかとも思うが、これはおまえの仕事で、これは俺の仕事だから、俺は俺のなすべき仕事はきちんとするが、お前の仕事には一切協力しないという態度で果たして夫婦関係がうまくゆくものであろうか。基本的な大枠はそうであっても時には例外を認めて協力し合うべきである。お互いの権利意識だけを肥大化させても、最終的には双方の利益にも幸福にもつながらないものである。社会における公と私の関係もそれと同じだと私には考えられる。いかに法治国家であるとはいえ、法律や規則の遵守よりも人の生命や安全の方が価値があり、優先されるべきである。同様にいかに民主主義であると言っても、権力の乱用や越権行為は許されないが、時と場合によっては柔軟にプライバシーの侵害に類するようなことも我々市民は認めるべきである。それが為し得るかどうかということが、その社会の成熟度を測るバロメーターであるといえるのではなかろうか。そういう意味では日本の社会の成熟度や国民の精神性はいまだに低いゆえに、結果的に市民の権利意識が政治に利用されているような有様になっているように考えられる。わかりやすく具体的に述べれば、地域単位で児童虐待を本気でなくしていこうと考えるならば、その地域の住人が警察や児童相談所などの公的機関に対して任意の立ち入り調査を認めるような法律なり条例を制定してもよいのではないのか。そして国はその見返りに児童保護先進地域として、その地域の子供がいる世帯に児童手当などの手厚い特別支給をなす法律を制定すればよいのである。そうすれば各地域が競って、いかに子供を大切に育てる上で適しているかを市民にPRすることにその実績を利用することとなり、好循環への端緒となるのではないのか。他にもいろいろと方法は考えられるであろうが、工夫や改善の余地はあるはずなのである。そういう取り組みがなされていく政治的な土壌があるなら、今回のように中学生の女の子が2年間も人知れず監禁されるような馬鹿げた事件も起こり得ないはずである。日本の政治のダメさ加減は今更、指摘してもしかたないことであるが、ともかくもっと民主主義の成熟と精神性を高めていく必要性があると思われる。