龍のひげ’s blog

子供たちの未来のために日本を変革する

政治家の発言内容と民主主義の筋道

それから政治家の問題発言について、一言、言わせていただきたいのであるが、確かに政治家は発言内容について責任を持たなければならない人種ではある。しかし程度のいかんにもよるが、政治家が問題のある言い回しや言葉を口にしてしまうことを恐れるあまり、自由闊達に自分の思ったことを話せない風潮が今以上に強まってしまえば、余計なことや際どい内容については、口にしない方が自己保身のために無難であるという考えに必然的に行き着いてしまうことであろう。ひいては政治家が公の場で発言する内容については、事前に側近の役人に原稿を作成してもらって、よくよく吟味されたものばかりになってしまう可能性も大である。これが日本の政治のために、国民の利益のためになるのかどうかということである。そもそも有権者は、選挙における候補者の能力や人柄について、ほとんどわからないままに投票しているものである。選挙カーに乗った候補者が、ひたすら呼びかける「お願いします」の連呼を聞かされて、一体、その人間の何がわかるというのであろうか。役人が作成した原稿を棒読みしているのを聞かされることについても同様である。政治家の特権とは、不逮捕特権とか交通機関の無料乗車とかいろいろあるであろうが、有権者にとって何よりも重要なことは、その政治家が内面の良心に照らして正しいと思っていることを、自らの言葉でなんの束縛も抑制もなく、自由に語るということではないのか。社会通念であるとか、近隣諸外国への配慮など、考慮されなければならない事項は当然あるであろうが、それでも基本的には政治家は自らの信条を言葉で表明することが仕事なのだから、たとえそこに何らかの問題や間違いがあったとしてもその時々で訂正したり、取り消したりしながらも、総体的に一人の政治家としての特性であるとか個性が示されるべきである。民主主義の原則とすれば、その政治家の発言や姿勢が、最終的にどのように判断されるかは、選挙における審判しかないものである。ところが日本は、マスコミが政治家の言葉尻を捉えて、辞任に追い込んだり謝罪させたりする力学が強く働き過ぎるのである。マスコミが政治の審判員のようになって偽物の民主主義が演じられている裏で、たとえば自民党とTBSがしっかりと結びついていて国民の目の届かないところで便宜が計られたりということが常態化しているものと考えられる。そういう奇妙な持ちつ持たれつの関係性が日本の政治とマスコミの間には、戦後70年あまりの歴史の中で堅固に構築されていて、日本の民主主義そのものを確実に歪めてしまっているのだ。対比してアメリカの政治をみると、たしかにマスコミはそれなりに政治的な影響力を有しているであろうが、日本に比べればまだしも健全性が感じられる。たとえばトランプ大統領が自らの政治手法を面前で激しく批判する記者に対して、罵倒の言葉を投げつけて国民から批判を受けたとしても、マスコミの圧力で謝罪に追い込まれると言う事態にはなり得ない。大統領府の報道官などは、開き直って言っている訳でもなかろうが、トランプ氏がそういう人間であるということが理解されている上で大統領に選ばれているのだから、問題にはならないと回答していたが、確かにその通りなのである。民主主義だからマスコミであれ国民であれ、批判するのは勝手であるが、何でもかんでも政治家に謝罪させればよいというものではなく、それは筋道違いというものである。しかし政治のトップが犯罪のもみ消しのような不正をしているのであれば、それこそ深刻な大問題なのであるから、真相を明らかにすべく徹底的に究明されることは当然であって、私は仮にアメリカであれば大統領といえども議会の激しい追及に晒されるであろうと想像するものである。もちろんアメリカの政治にもいろいろな問題はあるのであろうが、日本の政治は民主政治の成熟どころか、出発点から一歩たりとも前進していないように思えてならない。