龍のひげ’s blog

子供たちの未来のために日本を変革する

マスコミ絵画の鑑賞方法

「問題、最も深刻な稲田氏の発言、なぜ続投」(毎日新聞)などと相も変わらずにふざけたような問題提起をしているが、詩織さんが検察審査会に申し立てを起こしたレイプもみ消し疑惑については簡単にスルーしておいて、一体、何が「最も深刻な問題」なのかということだ。詩織さんの一件は、さほど深刻でも問題でもないということか。ここにあるのは重要性が転倒、反転したところの奇怪で不可解な構図の画法によって描かれた風景画のようなものだ。こういう絵をシュールとでもいうのか、普通であれば遠くに位置するものは小さく描かれて、近くにあるものは大きく描かれるのが正しい遠近法である。ところが日本のマスコミが、情報をデッサンして描く絵は、最も深刻で重要にすべきことが肉眼では判別できないほど小さく描かれて遠くにあるように見え、どうでもいいような軽微なことが目の前にでんと大きく描かれて、近くにあるように見えるという斬新な表現方法を採用しているようである。日本のマスコミはこのような画法をいつ、どこで学んだのであろうか。私には、ピカソの描くキュビズムであればまだ少しは理解できそうな気がするが、マスコミのシュールな絵はどうにもその価値がよくわからない。皆さんはどう思われているのであろうか。ともかくもマスコミの描く絵は、重要性が常に転倒、反転していることだけは、よく肝に銘じていただきたいと思うのである。そういう認識がなければ、そのような絵画を日常的に見せられている我々、鑑賞者の精神を正常に保つことが困難であると思えるからだ。果たして「まとも」なのはマスコミと政治の方なのか、それとも私の方なのかという根源的な疑問にまでいきつく。このようなことを言い続けていると、明治か大正の時代であれば狂人扱いされて精神病院に入れられるか、治安維持法が発動して官憲に逮捕され、小林多喜二のように拷問を受けて殺されることになっているかも知れない。さすがに今の時代にはそういうことはないが、日本の政治権力や情報空間は、今日においても見え難くなっているだけで、そのような治安維持法的な精神性は確かに引き継がれているものである。私が日本は現在にあっても、一般の日本人が漠然と思っているより、恐ろしい国であるというのはそういうことなのである。表面的な架空の民主主義が、権力や情報統制の実態を隠蔽してしまっている現実と言うものは確かに存在するのである。重要性の転倒、反転、論理のすり替え、言葉尻や言い間違いへの攻撃、差別撤廃を口実にした言論弾圧、そういうものが今の報道空間を暗雲のように切れ間なく覆ってしまっている。そこにはご都合主義の正義と解釈しかないものである。よって我々は、常識的な見方で今の日本の政治とか民主主義を見ていてはいけないと思うのである。自民党民進党かという次元の問題ではないのだ。広義には共産党も含めてであるが、見せ掛けの作られた対立軸しかないのであって、同質の政治しかないのだから結局は何を選んでも同じなのである。そんなものに何百億円もの税金を投入しないで欲しいものだ。とは言え、いかに形骸化した民主主義であろうと選挙は必要であろうが、我々国民は政治や情報を近視眼的に見るのではなく、俯瞰して全体を見ると言う思考習慣を身につけなければならないと思われる。近視眼的に見るから政治やマスコミに操作されるのである。近視眼的に見ないということの意義は、自分の立場だけでなく自分の利益を離れて思考することで、それによって社会の本質が自ずと見えてくるし、意識も上がっていくのだと思われる。そしてそういう意識を有する国民が一定の割合に達すれば、日本は内側から変化していくであろうと私は信じている。