龍のひげ’s blog

子供たちの未来のために日本を変革する

押し付けられた民意の民主主義

あえて説明するまでもなく、私の記事内容を読んでくださっている人には理解いただけているであろうが、私は自民党を支持などしていない。私が今、問題にしているのは、政治とマスコミの親密かつ不適切な関係性であり、マスコミの影響力が政治の流れを左右し、日本の民主主義そのものを根底からコントロールすることで歪めてしまっていることに対する危機感がある。この危機感を私だけのものとしてでなく国民全体で共有していかないことには日本が変化していく芽の可能性を持ち得ない。何度も繰り返すが、なぜ、今、報道空間においては稲田氏の発言がこれほどまでに大きく取り上げられているのか。稲田氏の選挙応援演説における僅か数語の言い間違いか表現方法が、政局を揺るがすほどの大きな問題にされなければならないのであれば、詩織さんのレイプもみ消し疑惑はなぜ追及されないのか。全ての政党と全ての報道が、国民の目をこの些細な問題に引き付けて、より本質的なことやより深刻な問題については思考させないように誘導しているようには思えないですか。より本質的で、より重要な問題とは、政治とマスコミが一体化していて、日本の民主主義が虚構以外の何物でもないという事実である。それを隠すために、このような政治家の言葉尻を捉えたような言い間違いか、訂正すればすむようなことへの総攻撃が、政治と報道の空間を煙幕のように覆われてしまっていると見るべきである。政治とマスコミの手口はパターン化しているので、これまでにも何度も見られてきた光景ではありますが、皆さんはどこかおかしいとか不自然だと感じられたことはないでしょうか。よほど鈍感な人でなければ誰もがTVや新聞などの報道には不可解な気配を感じているだろうと想像されます。その市民感覚を日々、増幅、拡大させていくことが、民主主義を健全なものにしていく道筋であって、我々国民が政治やマスコミの誘導に従わなければならないなどという法律も道徳もないものである。そこにあるのは一部の既得権益者の利益だけではないのか。我々国民は日本の世論というものが実質的な部分でどのように形成されて、社会操作がどのように行われているのか、より敏感に察知して、正しく理解する必要性がある。今回の稲田氏の発言についての政治家の反応を見ても、不可解なところは感じられるものである。具体的に言えば、大阪府の松井知事は、6月28日の時点では稲田氏の発言問題に対して、辞任の必要はない、「発言を捉えて、政局や選挙に利用するのは違うのでは」とはっきりと批判していたのである。
これは民主主義の政治であれば、一つの問題に対して必ずしも全体が統一した見方を示さなければならないものでないのだから、その考えが正しいとか、間違っているという以前に政党政治の在り方として当然の独立した一つの意見であると見なすべきである。
ところがである。その僅か二日後の6月30日には、松井知事は手のひらを返して風見鶏のように前言を撤回し、「なぜ辞任しないのか不思議」などとコメントしているものである。
不思議なのは松井知事の頭の中身の方である。皆さんはどのように思われるであろうか。ここには日本の民主主義を歪めている何かしら不可解で不当な力学が働いているようには感じられないであろうか。私はそう感じるものである。日本の政治や報道は全て、ほとんど「全て」であるが、国民とは無関係に、国民が決して自立した精神を持ち得ないように意図的に作られ、押し付けられたものでしかないのである。