龍のひげ’s blog

子供たちの未来のために日本を変革する

正義の採算

長年の間、朝日新聞毎日新聞などで左翼思想の正義に殉じてきたはずの人間が、その社会的身分を離れて自由に物を言えるようになった時に、雑誌の対談などで、元在籍していた組織を「正論」で平然と批判するということは、まま見られることである。たとえば前回に述べた、元週刊朝日の編集長を経て朝日新聞編集委員を歴任した人や、元毎日新聞の常務などである。慰安婦報道の問題点について何ら悪びれる事もなく、忌憚のない意見を述べている。節操がないと言ってしまえばそれまでだが、結局、そこに見られる真実とは、彼ら(左翼思想の一員)も本当は、組織の制約や束縛で本心を述べられないだけで、その左翼的なイデオロギーの見方や考え方に問題が多い事は実はよくわかっているものである。だから紙面で繰り返し主張されたり、固執されている論調は、必ずしも信念や理想に基づくものではなくて、何か別の要因によって決せられている割合が小さくはないのだと考えられる。それが何かと問われれば、一概には答えられないが、総じて言えば経営上の要請ということになるのであろうと思われる。それで、現在において朝日新聞毎日新聞に在籍している記者たちは、そのように既に退社している人々が元いた組織を、彼らが心の中で思っていても決して述べられないような正論で自由に批判している記事や場面を見ると「ずるい」ということになるのであろうと思う。長年の間、社に世話になってきて定年まで高給を貰い続け、退職金まで無事に受け取っている身でありながら、どうして自分たちの境遇に関係なくなった途端に、翻したように後輩たち(つまり現在、在籍している者)の肩身が狭くなったり、社が存続上の危機に瀕するようなことを平気で言えるのかという憤りである。彼らからすればとてもではないが、虚心坦懐に耳を傾けられるような忠告、意見ではないということになるのであろう。だから広告拒否などということにもなるのだと想像される。その気持ちはわからないではない。わからないでもないが、それが我々一般の国民に何の関係があるのかということだ。新聞社は、企業の不正行為を追及する記事によって、たとえば食品企業の産地偽装、賞味期限の改竄、建築業界の耐震偽装、賃金の未払いや過労などブラック企業に関する問題などで、どれほど多くの企業をこれまで倒産や廃業に追いやってきたというのか。もちろんその行為自体は、報道機関としての役割であるから批判される筋合いのものではないと言える。しかし全ての企業は激しい生存競争と、不景気の厳しい環境の中で脱法行為すれすれの経営を余儀なくされているという実態もあるものである。ところが新聞社を筆頭とするマスコミは、どこかの企業に狙いを定めて不正の追及を一旦始めると、その企業側のあらゆる言い分や弁解を一方的に論破、無視して、徹底的に追い詰める事が常態である。朝日新聞のこれまでの慰安婦報道は、言論の自由が保証されているゆえに不正行為であるとは言えないが、不確かな情報をまき散らして世界中に喧伝、拡散させ、日本の地位と尊厳をもはや取り返しがつかないほどに貶めた張本人であるとも言えるものである。その被害、損失の大きさは、一民間企業の不正行為などと比較してみても、比べものにならないほどに甚大である。朝日新聞の何よりも罪深いところは、新聞社として慰安婦問題追及の先陣を切ってはきたが、自社として腰を据えたような本格的な研究や調査をしてきた痕跡がほとんど見られないことである。誰かがどこかの図書館で見つけてきたような切れはしの断片的な情報に基づいて推測のレベルのことを、韓国との共同歩調で確定の事実にいつの間にかすり替えてきてしまったことである。朝日新聞にとって都合のよい情報のみに注目し、それに矛盾するその他の情報をほとんど無視してきた報道機関としてはあるまじき姿勢である。要するに結局は、捏造と言われても仕方のないものではないのか。それを慰安婦の悲しみが云々とは聞いて呆れるというものだ。慰安婦が気の毒だというのであれば、確かにその通りかも知れないが、こう言っては何だが、今の時代にあっても慰安婦以上に気の毒な人はいくらでもいる。戦争と言う悪に対峙する正義を標榜したいのであれば、先ず自分たち自身で当時の国や軍が、慰安婦制度を主導した明確な証拠を見つけ出してくればよいではないか。それを誰かの虚言や切れはしの不確かな間接情報だけで、自分たちの直接的な責任の埒外において、レトリックで国に責任があると考えることが当然であるかのような雰囲気を醸成させ、ヒューマニスティックに国家権力の悪に向き合うかの如き報道姿勢は、卑怯者のするやり口である。朝日新聞には個人的には何の恨みもないが、そのような報道機関が、ぬくぬくと存続し続けると言うことが私には許せない。