龍のひげ’s blog

子供たちの未来のために日本を変革する

正しい抗議活動の在り方

ヘイトスピーチは二つの意味で問題がある。先ず第一は、純粋に差別的な表現そのものの問題であって、何の罪もない在日の人々の心を傷付けるということは認めなければならない。しかしそれを根拠に、ヘイトスピーチを法的に規制すべきであるかどうかの判断は、第二の問題をどう考えるかということと密接に関わってくる。それは差別撤廃を口実にして、ヘイトスピーチとは何の関係もないようなごく普通の個人の発言や表現活動までもが規制対象となる内政干渉や政治路線に発展、拡大してゆく可能性が高いと考えられることである。すなわち「人権擁護法」成立への先導的な役割でヘイトスピーチが政治利用されており、その進行はとば口から第二段階に突入しようとしている状況であるとも目される。これは非常に危険な兆候である。そもそも元からマスコミのヘイトスピーチに対する報道の取り扱いは、不自然に過大であった。これは3年ほど前に発生していた韓流押し付け反対のデモ活動と比較すればよくわかることである。フジテレビが国民に対して、ドラマや歌番組などの放送内容を韓流で占拠させているとして、スポンサー企業の不買運動も含めて抗議活動が頻発していた時期があった。ところがマスコミはこのような動きをまったく無視して、一切、報道しようとしなかった。それに比べて、ヘイトスピーチへの対応は差別と言う人権問題が絡んでいるとは言え、あまりにも対照的である。そこには純粋に差別を憂いているというよりも(私自身は少なからず憂いているが)、差別撤廃を錦の御旗として、反撃に転じているが如き構図があるようにも考えられる。道徳の裏側には常に政治が一体となってかまぼこ板のように張り付いているものであって、道徳を道徳の範疇だけで判断することは、一方的にマスコミや外圧に操作されることと同義である。ともかくもヘイトスピーチの在り方は差別表現の問題もあるが、第二の政治的介入の口実に為されてしまっている問題の方がより深刻だと言える。現時点においてはヘイトスピーチは日本国内で終息していてほとんど行われていないと見られるが、規制や対処法についての議論だけは、未だにヘイトスピーチが猛威をふるっているかのような独り歩きを許してしまっている。そしてその動きが、先にも述べた通り、人権擁護法に繋がっていく恐れが強い。そういう意味では、ヘイトスピーチを行っていた在特会という団体は、二重の意味で罪深いとも言えよう。差別的な表現と、差別介入の口実供与という二つの意味である。何度も繰り返すが、在日の人々には何の罪もない。そういう権力とは無縁の人々を排除したり、攻撃しても何の意味もないことだ。一般には誤解があるかも知れないが、在日の人々は日本人以上に韓国の反日政治や体制を快く思っていなかったり、食傷していることも少なくはないものである。在日の人々は口には出さないが、内心ではそういう反日に依存した韓国の政治が変わって欲しいと考えているものである。よって抗議活動を為すのであれば、怒りの対象は在日の人々ではなく、はっきりと韓国の政治と権力に向けられるべきである。それも一般的な韓国の国民や世論相手ではなく、韓国政治の中枢や大統領、それと韓国の支配者階級である財閥やマスコミに向けて抗議するのが筋であると言えるのではないか。正に韓国や中国の大衆が国内でやっているようなデモを、日本で行ったからと言ってどこからも批判される道理はないではないか。何も私は扇動している訳ではない。どのような内容のデモであっても、私は群集行動は好きではないので参加するつもりはない。しかしもし今後とも在日の人々に憎悪を投げつけるデモを行う予定があるのであれば批判の対象を変えるべきであるし、今まさに日本への内政干渉を許さないためにもそう表明すべきではないのか。