龍のひげ’s blog

子供たちの未来のために日本を変革する

イノセントな議論をヘイトせよ

油断、放置しているとヘイトスピーチへの対策が、一気呵成に人権擁護法案に流れると考えられる具体的な根拠はある。先ずヘイトスピーチの定義付けが曖昧な上に、一々役所の人間が現場を確認して判断することも困難である。警備でデモに随伴している警官であれば、常時、見ているかも知れないが、末端の一警官がヘイトスピーチかどうかを判断するというのもあまり現実的ではない。そこでビデオで撮影して後で検証するという方法が、唯一可能であると考えられるが、仮にその方法が採用されるのであれば、人権委員会が差別事案の審査や調査権限を有する人権擁護法の内容とほぼ同一のものとなる。そして一旦その枠組みが出来てしまえば、対象がヘイトスピーチに限定されると考えることには無理がある。なぜなら新法の制定、施行によって、関連する諸機関の設置やそこで働く人員の給与など国からの予算が認められることとなれば、当然そこには新しい利権が発生するということである。そして、その政策を安定して維持、運用させるためにはどうしても実績が必要となってくるものである。国民の税金を使っているのだから当然のことではあるが、目的のために原因が捏造されたり、誇張されることは現実にあることである。たとえばDV法施行の時にも見られたことではあるが、実績を確保するためには、国や自治体の役人が必死になって国民(女性)に被害を訴えるように煽り立てたり、宣伝工作がなされることとなった。そうやって被害実績を作らないと次年度の予算がどうなるかわからないからだ。本末転倒も甚だしいが、役人の思考回路とは得てしてそういうものなのだ。これが現実である。それではヘイトスピーチの場合はどうかと言えば、前回にも述べた通り、今日においてはほとんど終息して、行われていないものである。今後また再発する恐れがあるという人もいるかも知れないが、どうだろうか。私は、仮に再発するとしても今の状況から考えれば、新法で強引に取り締まらなければならない程の過激さや拡散には至らないのではないかと思うのだが。そうであれば新法(利権)だけあって、将来的にその実態がまるで存在しないという非常に困った状況となる(一般の国民は何ら困らないが)ので、最初から、つまり法案作成の段階から対象の間口を広げて総合的に人権問題に広く対処する性格の方向付けがなされる可能性が濃厚であるということでなる。つまり名称はどうであれ、実質的には人権擁護法案の中身に突き進んで行かざるを得ない必然性を今の状況は孕んでいると考えられるものである。そうなるとデモ活動だけでなく、我々日常の言論や主張までもが、差別撤廃の名目で監視対象になりかねないということなのだ。目的(法)のためには、原因(差別)が必要だという捻れた論理も成り立つのである。またこれら全てのことを見越した上で、ヘイトスピーチ対策法の必要性が論じられている可能性も高いわけであり、一部の勢力やマスコミが絵を描いている通りの平面上で、単純に右派と左派に分かれて意見を戦わせるとこは、あまりに無防備なイノセンスであると思われる。日本の民主政治とは、基本的にはそのように裏側で計画された意図や筋書きを見え難くさせるためだけの目的で、我々に不毛な議論をさせることが往々にしてあるものである。